KONGO 金剛五十年史

序 章

滴

身一つで商売の世界へ

谷脇源資会長の生い立ちから今日まで

穴吹村に発した小さな水滴は、50年の歳月を経て今や、金剛という大河と化して、わが国の産業界に名を留め、国際社会に貢献する優良企業へ成長を遂げた。

山紫水明のふるさと

手を上げれば届きそうな澄んだ青空、流れる川は魚影濃き清流—金剛株式会社会長、谷脇源資の故郷・徳島県美馬郡穴吹村(現穴吹町)は、平安時代末期、壇ノ浦の合戦に敗れた平家の落人が隠れた四国山脈の剣山麓に連なる山峡の村だ。

村を流れる穴吹川は、四国一の美しい水質を誇り、「板東太郎」と呼ばれる関東の利根川、「筑紫次郎」と呼ばれる九州の筑後川に続き、「四国三郎」と称せられる吉野川に合流し、太平洋に注ぐ。

大正も終わりに近い14年2月18日、この清流を産湯に使って谷脇源資は誕生した。穴吹川は太平洋へ流れていくが、穴吹川で育った谷脇源資は、瀬戸内海を渡って大阪へ。さらに終戦後は九州・熊本に出て行く。

穴吹村に発した小さな水滴は、50年の歳月を経て今や、金剛という大河と化して、わが国の産業界に名を留め、国際社会に貢献する優良企業へ成長を遂げた。

穴吹町を流れる穴吹川の空撮
谷脇源資会長の故郷、徳島県美馬郡穴吹町。町を流れる穴吹川は清流・吉野川の源流の一つだ(写真提供/穴吹町役場)

勤勉で利にさとい徳島県民

古くは阿波国と呼ばれる徳島県は、吉野川の流域を中心に発達した。南北には山が横たわり、東は大阪湾に口を開いて海運に恵まれる。河岸平野には、早くから農業がひらけ、商業の活発な地であった。

江戸時代、幕府や諸藩は財政上の目的から、各地の特産物を奨励したが、阿波の藍はその雄たるもので、ほとんど全国一手の販売を引き受けるほどだった。ここに生まれたのが藍商人であり、江戸・大阪を中心に、全国いたるところに足を伸ばして巨万の富を得る。

藍玉を媒体に、大阪の郊外として早くから商業化した農村を抱える徳島の県民は、大阪と同じように勤勉で利にさとく、モノの価値観を“損と得”で決める習慣が身についた。煙草も木綿も行商によって他県に運ばれたし、上方の大資本の買いつけを通して売りさばかれたので、商行為は都市のみでなく農村にも深く浸透したのである。

また、徳島県の人口は83万人、出稼ぎなどで県外に出た徳島県人は関西圏では100万人に達するといわれ、大阪経済圏と共に歩み続けてきたといってもいいだろう。

藍商人が町でおおいに栄え、潤沢な金で十分生活を楽しんだ結果として、阿波の城下町である徳島では、遊楽の地が栄え、歌舞伎の類が発達して現在に至っている。阿波に有名な浄瑠璃が発達したのもこのためだ。

しかし、何といっても「阿波」の名を全国的に有名なものにしているのは“阿波踊り”であろう。

踊りおどらば しなよく踊れ/品のよいのを 妻に持て/阿波はよいとこ 蜂須賀様の/御威勢踊りに 立つ浮世── 阿波踊りの歌詞より

中でも「踊るアホウに見るアホウ、同じアホウなら踊らにゃ損々…」という歌詞が有名で、「踊らにゃ損々…」の言葉には、徳島の県民性の一端を伺うことができる。江戸時代からは、特産の藍産業が活況を呈し、莫大な財を成す者も出た。

藍問屋「御免屋」の子孫として

こうした特性のある徳島の地に谷脇源資は、父禎一・母キヨカ夫妻の四男四女の長男として生まれた。谷脇家は代々、庄屋の家柄で、阿波の特産・葉藍を作る藍問屋であった。屋号は「御免屋」。今から約250年前、領主の蜂須賀公が視察の折り、村民と協力して、立派な商いをしている様子に大変感心され「褒美として、名字帯刀を許し御免の家にする」と、屋号を許された—と、その由来が伝えられている。明治初期のころ穴吹村に最初の寺子屋を開設したのは、谷脇家だとする記録もある。

しかし、明治以降、藍染めは化学染料によって大きな経済的打撃を受ける。以後、藍産業は斜陽化。谷脇家も谷脇会長が幼少のころは農業に転じており、苦しい生活の中で長男として、幼いうちから生計の手助けをしなければならなかった。源資少年は幼い妹を背負い、次の子を宿している母親が早朝から夜遅くまで働く姿を見て育ったせいか「一日も早く母を楽にさせてやりたい」と、心に誓ったという。

谷脇会長は、何事にも辛抱強く、どんなに苦しい時でも勇気を持って立ち向かい、貧しくとも人を温かく包み込んでしまう母親の影響を強く受けて育った。

母は平素から、例え貧しくとも他人から施されるよりは、まず人に施しなさいと、よく言っていた。母は気配りの名人で、貧しい家計をやりくりしながら、近所に病人が出れば野菜や卵、ミカンなどを持って見舞いに行くという気の配りようだった。私も以心伝心、母の教えを受け継ぐことができた。もし、この気配りがなかったら今日の金剛は存在していないだろう── 谷脇会長

母キヨカさんは平成9年6月、金剛創業50周年の年に91歳で天寿を全うした。父禎一さんは、まじめ人間の標本みたいな人。曲がったことが嫌いで町の名物老人。今年95歳ながら1日3回の散歩が日課。働き者だった両親の下で育った谷脇会長のだれにも負けない不撓不屈の精神は、既に幼少のころに培われていたのである。

12歳で商人の町・大阪に奉公へ

昭和12年、源資少年は尋常小学校を卒業し、縁あって大阪に奉公へ出ることになった。当時、大阪で測量製図店に勤めていた叔父が、四国・善通寺11師団に応召され入隊することになったためである。自分の代わりに同店に勤めてほしいという叔父の勧めと、母キヨカさんの願いもあり、大阪に奉公に出ることになったのだった。源資少年、12歳の決断である。

その年8月1日、源資少年は、関西汽船・山水丸の船上にあった。徳島の小松島港を出港した船は翌2日午前6時、目的の大阪・天保山の埠頭に接岸した。市電の始発は6時30分で、それに乗ると、およそ1時間ほどで大阪の中心部に着くことができる。1日も1時間も無駄にせず働けるようにという、大阪人ならではの合理主義の現れである。

叔父の紹介とはいえデッチ(丁稚)奉公の身、店では「源吉どん」と呼ばれ、厳しい修業の日が続いた。昼間は店の仕事、夜は夜学に通うのが日課。初めて貰った給料は50銭、1年後に3円に昇給したが、始めは靴下1足買えないありさまだった。番頭からはいじめられるし、寒い冬にはオーバーコートの代わりに、ジャンパーの下にコールタールを塗った荷造り用包装紙を入れて寒さをしのいだ。

厳しい丁稚奉公をしながら源資少年は、夜は中之島にあった大阪市立実業学校に通い、簿記やそろばんを学んだ。当時、夜間の旧制中学校に入学すると、週末には青年学校で軍事教練を受けねばならなかった。青年学校は、何よりも情報交換の場となり、友人に刺激されて独立を決意。昭和15年秋、店を辞めることになった。

国民服姿の谷脇源資(18歳)の肖像写真
大阪時代。18歳、国民服姿の谷脇源資

間もなく叔父が除隊となり翌16年春、叔父と共同経営で「金剛測量製図器械店(金剛測器)」を開いた。新規開店の金剛測器は、取引先のメーカーとは以前からの顔なじみで、直接仕入れるため品物も安く、注文も多く順調なスタートだった。だが昭和16年12月8日、太平洋戦争が始まると、徐々に品不足となり、従業員も召集と徴用で商売も窮屈になっていった。

そのころ、大阪城の近くにあった陸軍の造兵廠に出入りしていたとき「軍の御用商人にならないか」と勧められた。御用商人になると、当時は徴用されずに済むという特典があり、早速、その申し入れを受け入れた。そのお陰で商売を続けることができ、営業活動は大阪府庁はじめ、松下や住友など次第に広がっていった。

軍隊に入隊、終戦で帰郷

昭和20年春、戦況は日増しに悪化。徴兵適齢期を迎えた谷脇青年は徴兵検査で甲種合格となり、同年4月1日付で郷里香川県善通寺市の陸軍第11師団に現役兵として入隊した。独立迫撃砲中隊で1カ月訓練を受け、南方戦線に送られるところ輸送船がなく、終戦の日まで隣りの高知県で、海岸線の防御陣地づくりに汗を流す日々が続いた。

軍隊時代でも谷脇青年は商売熱心だった。当時、兵隊たちは民家に分宿していたので、米、麦、魚など食料品や酒類を民間人から仕入れては、中隊の将兵に提供していた。なにしろ食糧の乏しい時代で、谷脇二等兵の食料店は結構、空腹の将兵たちから重宝がられた。

国破れて山河あり

昭和20年8月15日、終戦。7月空襲で大きな被害を蒙った高知市の焼け跡整理の使役を課せられ、仲間より1カ月ほど復員が遅れ、9月末、既に初秋が吹き始めていた故郷にたどり着いた。

「国破れて山河あり、城春にして草木深し」の言葉どおり、故郷の穴吹村の山河は昔のままだった。大阪時代の蓄えもあったので、帰郷してから早速商売を始め、四国中を回った。母から言われた“気配り”が裏目に出て、他人をすぐ信用して貸した金が戻らなかったり、詐欺に遭う等のトラブルに見舞われて、ブローカーのような商売は失敗に終わった。

大阪に出て、独立を決意

昭和21年、谷脇青年は四国の徳島・高知で開拓した事業を叔母に引き継いでもらい、戦前、働いていた大阪へ向かった。

叔父と共同で経営していた大阪の店は戦時中は解散していたが、一足早く軍隊から復員した叔父は店を再開していた。叔父の勧めで店に戻ったものの、叔父とは十歳違い。叔父を「兄さん」と呼ぶ仲だったが、ここが袂を分かつ良い潮時と、叔父の下を離れて独立することを決意した。

なんとしても自分の家である『御免屋』の再建をしたかった。当時、家は貧乏で兄弟も多かった。金儲けして親孝行がしたいという思いも強く、まずは大阪へ出ることが先決だった── 谷脇青年、時に22歳

そのためには独立して自分の店を持たなければならぬ、との結論に達したのである。叔父に独立の話を切り出すと、当初は反対したものの、甥の決心が固いことを感じ取り、叔父は、店を持つに当たって、大阪、名古屋、東京以外の土地なら認めようと言ってくれた。

22年を迎えるとやむをえず、谷脇青年は住み慣れた古巣の大阪に別れを告げて、かつて取り引きで足を運んだ九州の福岡博多の地を、自分の新天地の候補地に決め、大阪から海路経由で大分県別府市へ旅立った。

大分別府から目的地の博多へ。この時の足は自転車である。早速、店舗にできる貸家を見つけようと博多駅周辺を自転車で捜し回ったところ、約4坪(13.2㎡)の家が見つかり、すぐに敷金を払って確保した。

まず大阪時代に取引きしていた近くの販売店の満留屋商店を訪ねると昼食を出して歓迎してくれた。ところが、博多で測量製図機器の店を開くと言ったとたん、相手の態度が一変、恩をアダで返すのかと怒られる始末。次に石蔵測量製図器械店を訪ねて開店の話をすると、事前に連絡がしてあったらしく、裏切るような行為はするなと厳しい抗議。「福岡では店を開くことは無理だ」と、諦めるのも早かった。

谷脇青年は、自転車で長崎、佐賀、鹿児島、宮崎各県を回って新天地を捜し続けた。しかし“ここ”という感じの町はなかなか見つからない。こうして最後にやって来たのが熊本市だった。

昭和20年7月1日の熊本大空襲で焼き尽くされた市中心部の写真
昭和20年7月1日の熊本大空襲で、熊本市の中心部はほとんど焼き尽くされ、がれきの街となった。写真は新市街、花畑町、下通一帯の惨状。後に一帯にはバラックが建ち始め、金剛は左手煙突の下付近に建った第一マーケットに、その後中央やや右よりの建物の前に店を構えた

20年8月15日の終戦を前に、熊本市は7月1日と8月10日の2回にわたる米国空軍B29爆撃機による空襲で、市内の大半が焦土と化した。戦後は虚脱と解放感の中で始まったといわれたが、22年になると、インフレと食料・物資不足に苦しみながらも確実に復興の槌音が聞こえていた。

谷脇青年は熊本の市場調査を開始。営林局、県庁、門司鉄道熊本工事事務所、逓信局等を回ってみた。たまたま訪問した農地開発公団で「本当に品物があるのか? あれば購入してもよい」と声を掛けてくれた。逓信局でも「文具類を買ってよい」と、相次ぐ注文に手ごたえを感じた。

戦前の熊本は陸軍第六師団と役所・学校の町だったが、敗戦後も官公庁の出先機関は結構多かった。何しろ当時は深刻なモノ不足で、モノさえあれば商売ができた時代である。特に測量関係の品物は戦災復興には必需品。当時、測量用具を取り扱っていたのは2店ぐらいだったこともラッキーだった。当時はモノを持っている者が重宝がられる時代で、徳島県人であろうが、出身県で差別するような余裕まではなかった。

「新天地を見つけた!」、谷脇青年の中でそのひらめきは確信に近いものに変わっていった。勧められるまま、まずは店を構えることだと、大阪時代と同店名の金剛測量製図器械店の看板を掲げた。とにかく面白いように商売は好調で、鹿児島、宮崎からも現金を持って買い付けに来るありさま。

福岡の人の意見を聞いて、熊本で努力したのが、今日の成功につながった。もし、あのまま福岡で商売を始めていたら、どうなっていたか分からない。とにかく熊本では楽しく商売ができた── 谷脇会長

谷脇商店のユニーク商法

モノのない時代、谷脇商店は、どのような商法で売り上げを伸ばしていったのだろうか。そこには谷脇青年独特のユニークな発想が発揮された。かつて大阪で鍛えられた商才は、仕入れ面で他より先んじることにあった。秤(ハカリ)の製造元を知っているので、まず、そこの品物を押さえて注文を取る。

輸送手段としては、大阪—別府航路を利用。通常だと積み込みから別府に着くまで1週間〜10日間かかるところだが、船員にチップ100円〜300円を渡して頼めば、4トン車いっぱいの品物を積み込み、1日で運んでくれる。船から降ろした品物は便利屋が別府駅まで運搬。次は駅にいる赤帽3〜4人掛かりで3等車に運ばせる。この手法だと、他店より早く、安く納品できる。こうしたユニークな商法は2年ぐらい続き、昭和25年までにかなりの利益を上げることができた。こうして26年1月、金剛株式会社が誕生したのである。

藤崎宮秋季例大祭に参加する谷脇(昭和24年、新市街で)
藤崎宮秋季例大祭に参加(昭和24年、新市街で)

社長在職45年間を振り返って

オーナー社長とは言え、45年間、半世紀近く社長の座に着いて走り続けた社長は多くはない。在職期間中に試練にさらされたケースも少なくない。なかには排他的な熊本県民性に起因する中傷によるものもあった。しかし、その都度、試練を乗り越えて逆に会社は大きく育っていった。まさに“阿波商人”にふさわしい強運の持ち主と言える。

いろいろ困難なハードルがあったけれど、うまく越えてきた。家内をはじめ、私には多くの人との出会いがあり、ドラマがあった。母から言われた“気配り”に徹したことが、長く社長として務めを果たしてこれたのでは── 谷脇会長

谷脇会長は、日常的によく“気配り”という言葉を強調する。後日、大阪に出て働くようになり、帰郷するときには、大阪名物の“粟おこし”を土産に買って、わずか1枚ずつでも、隣組の全世帯に配った。

ふるさと穴吹町との交流はいまも続いている。昭和36年から毎年、穴吹町中学生たちの修学旅行には、コースに金剛工場の見学が設定されている。郷里の後輩たちは、最新鋭の設備を備えた工場で作り上げられる「金剛製品」を目のあたりにし、先達の挑戦の結果に思いをはせる。

穴吹町の中学生たちが工場を訪れた記念写真
修学旅行で訪れた、谷脇会長の故郷、徳島県美馬郡穴吹町の中学生たち

情報と決断と実行

戦いに勝つための条件は、まず敵を知り己を知ることだと言われるが、そのためには情報を収集することが先決である。谷脇会長の商売でも同じで、勝つためには、確かな情報を入手したら、その真偽を確かめ、それが会社にメリットがあると判断したら、決断と実行が肝要だというのが信条だ。

オーナーだから他人に言えない苦労も多い。45年の間には成功ばかりではない。失敗もある。ただ、失敗しても、谷脇会長は、グチはこぼさぬ主義に徹してきた。信条としている「情報・決断・実行」は、まず昭和22年、人生の再スタートを熊本市に決めた決断に始まり、24年、いち早く情報を収集、将来を見越した栄通りへの進出。28年、大水害の損害を半年間で取り戻した実行力。同時に情報による水害直前の建設機械課の新設。32年、商社からメーカーへの転身。41年、スチール家具製造からラック業への参入など、すべてこの3原則を守って行動した成果である。

例えば、昭和32年〜38年ごろにかけて、ロッカーやキャビネットのスチール製家具は好況を呈していた。この好況を背景に16社が製造に参入したため、当時2万5000円のロッカーは半値に下落。乱売合戦が続いた結果、40年になると、金剛1社だけが“満身創痍”ながら残っていた。

そのときも、いち早くロッカー、キャビネット時代は終わったと判断。新分野への転身を図った決断がモノを言った。メーカーへ転身を考えたとき、銀行筋から反対されたが、数人の友人からメーカーは当たれば成功するとアドバイスを受け実行に移した経緯もある。取引先の旭金庫の倒産で、3人の技術者を迎えて始めた町工場並の金剛は、このとき入社した20歳前後の若い“三人のサムライ”—小森光雄、高橋明男、臀守—が、自ら製品の金型を造り、資材を購入して発展の基礎をつくった。

往時を思い出すと、私も32歳そこそこの若輩だったが、20歳前後の3人が、よくやってくれた。また、喜多秀雄、鷹尾顕之助、逢坂久雄、古閑正俊等の幹部社員ががんばってくれた── 谷脇会長、社員の功績を称賛して

一番うれしかったこと

昭和41年1月、ラック業界に参入はしたものの、大きな実績がなかった。大学の学部の図書室等の仕事はしていたが、県立図書館の実績はゼロだった。

友人から熊本県が県立図書館を建設するという情報を入手。調査すると、既にライバル会社に内定しているらしい。谷脇会長は早速、当時の水上長吉県副知事(故人)、寺本広作県知事(故人)に「県産品の金庫を使って欲しい」と訴えた。その結果、採用されることになり、公的機関の大仕事第1号の実績を挙げることができた。

この県立図書館のラック工事をさせていただいたことは、何よりもうれしかった── 谷脇会長

実際この実績が、翌43年、国立国会図書館のラック工事の入札でモノを言い、受注に成功した。谷脇会長は「この工事を受けなかったら現在の金剛はない」と言い切る。この入札に当たっても多くのハードルがあった。田舎大工が本格的ビルを建てるようなもの…といった中傷があり、落札したものの、役所の方が心配して保証人を立てることを要求。このとき、援助の手を差し伸べてくれた会社が1社だけあった。同業種のライバル会社でもあったその会社は、保証する代わりに「今後の移動棚の新商品には電動棚はダメ。手押し式の生産は認める」という条件を付けられた。

しかし、これが逆に金剛にはラッキーとなり、49年、ハンドルで簡単に操作ができる大ヒット商品「移動棚Z」の開発を見ることになる。54年には、ゼネコンの鹿島建設技術研究所でテストを受けた「耐震システム」が商品化され、さらに62年「免震システム」が開発され、阪神大震災でその優秀性が立証され、高い評価を受けた。

社長交代と地域貢献

谷脇会長は常に「メーカーの発展は新製品を開発する新しい技術力だ」というのが信条。そのためには、人材の養成が何より肝心で、社員の“人づくり”を会社経営の大きな柱としてきた。

平成3年10月1日、谷脇会長は45年間勤めた社長の座を自らの決断で、娘婿・宮﨑邦雄専務に譲って会長に退いた。当時の心境を「まだ早いかなとも思ったが、激動の時代を生き抜き発展するには新たなパワーが不可欠と信じた」と語っている。とかくオーナー会社にありがちなワンマン経営の欠陥を人一倍熟知している苦労人らしい身の処し方と言えよう。大所帯になった金剛にとって、内と外の役割を分担するメリットもある。社内は宮﨑社長に任せ、社外を谷脇会長が担当する分担体制は、今日まで谷脇会長の計算通りうまく機能している。創業50周年を迎えた「金剛丸」は、老練な水先案内人(会長)と、新時代感覚の経営者(社長)の名コンビで荒海を航行中である。

金剛の創業者・谷脇源資会長と2代目の宮﨑邦雄社長
金剛の創業者・谷脇源資会長と2代目の宮﨑邦雄社長

谷脇会長は、地域貢献のため多数の公職に就いている。昭和40年、西村純義㈱有星社長(現会長)と結成した熊本工業クラブの代表幹事をはじめ、現在、熊本産業貿易振興協会会長、熊本流通団地協同組合理事長、九州セーフ・ファニチュア協同組合理事長を務めて、地域と産業界のため活動中。熊本流通団地の造成に当たっては、当初から“景観にすぐれた団地づくり”を目指し、県・市やNTT、九州電力に働きかけ、共同溝方式を採用。建物はすべて一定規準、道路から下げて植樹するなど熊本県制定の県景観賞第1号を受賞した。また、昭和40年ごろから提唱していた総合展示・文化ホール施設として、上益城郡益城町に九州一の規模を誇るグランメッセ熊本が建設された。

この二大事業は県・市が生んだ優等生で、大きなヒットだ── 谷脇会長

さらに、熊本新港付近を埋め立て、広大なポートアイランドを造成する提案等、アジアをはじめ海外へ目を向けた長期ビジョンの夢は果てしなく続く。

趣味あれこれ

谷脇会長は「趣味は仕事」と言う。しかし、意外に粋な趣味がある。会社創業から10年目の昭和31年、当時の水上副知事から小唄をやらないかと誘われたのが縁で、「田毎派」の田毎まつ代さん(故人)に夫婦そろって入門した。入門したものの稽古に費やす時間が惜しい。2年くらい続けた末、自由が利く客分となる道を自ら選んだ。

ゴルフ歴も古い。昭和30年から始めた。当時、熊本でゴルフをプレーする者は少なかった。35年キャディ委員長だった小崎邦弥熊本日日新聞社長(故人)から勧められ、キャディ副委員長を務めたことも。実力はシングルまで上達したが、終始ハンディ12でプレー。現在はHC30(荒尾小岱山カントリークラブ理事)。健康のため休日には、ときどき自宅の庭でクラブを振ることもある。幼少時代、水彩で風景画を描くことが好きだったが、今は陶器の観賞が趣味のひとつ。よく窯元を訪ねては、会社の各種表彰の賞品や記念品として購入、県産品の愛用に協力している。趣味に対してもあくまで“自然体”で接したいというのが本音だ。

小唄に興じるころの谷脇会長夫妻(昭和35年)
仕事の合間に、小唄に興じたころ(昭和35年)

企業ある限り

「企業のオーナーは、その企業がある限り、オーナーとしての責任がある」。谷脇会長は会長職に退いた現在も、そういう心境である。ただ、今までのように働きづめでなく、楽しくいこう、社会貢献を考えていこう、皆に愛される人間として生きていこう、と考えている。幸い家族にも恵まれ、一人の社会人と4人の大学生を筆頭に11人の孫に囲まれている。「孫の相手もしてやりたいし、夫婦一緒に旅行もしたい」と、家庭人としての横顔ものぞく。

“オシドリ経営者”と呼ばれるユミ子夫人の存在は大きい。

結婚して今年は金婚式です。振り返る暇のない50年でしたが、主人とは役割を分担して、地道に本業に徹してきたのが良かったのでは…。家庭でも外部でも、主人と仕事の合間をみては子育てに追われましたが、幸い健康に恵まれて助かりました。家庭は両輪が良くないとダメですね。その点うちは模範でした。11人の孫もお互い仲が良いのが何よりで、主人も孫相手に結構、ストレスを解消しているようです── ユミ子夫人

谷脇会長は、最近の世相について、「現代の若い人たちは、物質的に豊かな時代に育ったせいか、責任や義務感が希薄になっている。親の責任もあるが、自分自身に誇りと責任を持って欲しい」と注文する。

谷脇会長はおそらくこれからの余生も、親から受け継いだ“気配りの人生”の道を歩み続けていくだろう。

旅行を楽しむ谷脇会長夫妻の近影
谷脇会長夫妻は、一線を退いた現在、夫婦で旅行などを楽しんでいる

原本 P.18〜25