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1957年KONGO 10年/昭和 32 年待望のメーカーへ転身
取引先だった旭金庫の倒産。「三人とも若い技術者で、私と一緒に働きたい」——“三人の侍”の入社が、商社からメーカーへの扉を開いた。
◆ 金剛の歩み
- 6月取引先で倒産した広島・旭金庫を買収。スチール家具工場を本社内の倉庫に新設、商社からメーカーへの転身を果たす。記念すべき第1号製品は金庫室用鉄扉
- 9月福岡営業所を開設。初代所長に松尾慶弥就任
◆ 日本・世界の動き
- 2月岸信介内閣が成立
- 5月英国がクリスマス島で初の水爆実験
- 8月茨城県東海村原子力研究所に原子の火ともる
- 9月国産ロケット1号機カッパーC型の発射に成功
- 10月5000円紙幣、12月11日には100円硬貨が相次いで発行
- 10月ソ連が人工衛星スプートニク1号打ち上げに成功
待望のメーカーへ転身
昭和30年代、わが国の経済は「もはや、戦後でない」と言われるようになり、経済の回復は目覚ましかった。竹馬経済などと評された経済も自力で立ち直り、近代化への道を歩き出したのだった。30年から36年にかけて、日本の経済は、“神武景気”や“岩戸景気”と呼ばれるブームをつくって成長を遂げたのである。これは技術革新と貿易の拡大に支えられたのが主要因であり、国内の総生産、消費傾向も非常な勢いで伸びた。特に民間企業は設備投資に力を入れて、体質の改善を図り、大量生産への態勢づくりに取り組んだ。
このように目覚ましい成長を遂げる産業と社会機構は、事務の高度化と多用性を伴ってくるようになる。ここで一躍、花形商品としてあらためてクローズアップされるようになるのが、事務機器とスチール家具だった。もちろん、これらの商品は、以前から使用されていたが30年代に入ってから、すさまじい勢いで需要が増大、それに従って、より高度の性能を持つものが要求されるようになった。
これからの事務の近代化には必ずスチール家具の需要が増えるだろう。能率的で耐久性に富み、しかもデザイン化されたスチール製品は、これからの企業にマッチした有力商品になるはず── 谷脇社長
こうした時代の流れを察知した谷脇社長は確信を固めていた。そして、メーカーへ転身するチャンスが予想よりも早く到来することになる。
若い技術者“三人の侍”が入社
たまたま、メーカーへの転身には、大きなきっかけがあった。それまで取り引きのあった広島県・府中市の金庫メーカー・旭金庫が倒産。「三人とも若い技術者で、私(谷脇)と一緒に働きたい」と言って同金庫の三人の社員(小森光雄、高橋明男、臀守)が、金剛に入社することになった。この“三人の侍”が入社しなかったらメーカーへの転身は遅れていたかもしれない。企業にとって、チャンスというものがあるが、金剛にとっては、まさにその時が到来したのであった。

新工場で晴れの第1号製品
メーカーに転身した金剛は、取りあえず500㎡(約150坪)の工場を倉庫(熊本市上追廻田畑町、現銀座通り)に新設、当初、機械設備としては、シャーリング、ブレーキプレス、パワープレス各1台、熔接機2台が主なものであったが、当時としては最新式の工場だった。何しろ全くの新分野だけに、社長以下社員全員、夜まで研究と試作を続け、その苦労は並大抵のものではなかった。谷脇社長の実行力とアイデアと高橋ら“三人の侍”の優れた技術と研究心は、試行錯誤を重ねながら困難を克服していった。
記念すべき第1号製品は、宮城農協(大分県竹田市)に納入した金庫室用鉄扉(幅1.5m、高さ1.1m)の頑強なものだった。新しい技術者を採用してスチール製オフィス用品と金庫の生産を決断した谷脇社長の戦略は、予想通り的中して、従来の商社からメーカーへの一大転換を果たした。32年6月のことである。

福岡営業所を開設
この時期は、販売網も急激に伸びたときでもあり、9月に待望の福岡市に営業所を開設。初代所長に松尾慶弥が本社と兼務で就任。しかし兼務では営業上不十分なので、郡山健が正式な専任所長となって約8年間活動した。一概に福岡進出といっても、開拓期の苦労は大変で、有名商社との競争は、金剛の社名をPRすることさえ、ままならぬ状態だった。当時から福岡経済は「支店経済」と呼称されるように、福岡市を舞台に国内商社の支店、営業所が入り乱れて激しい販売競争を展開していたのである。
福岡営業所は最初、当時事務用品の取り引き先だった豊玉商店福岡営業所の一隅を借りてスタートしたが、すぐに上土居町に営業所を新築、本格的活動に乗り出した。その後、郡山営業所長以下、たゆまぬ努力と誠実をモットーにした“金剛商法”は、徐々にではあるが明るい兆しを見せ、九州一の経済力を誇る博多の一角に、確固たる拠点づくりに成功、やがて北九州進出への足掛かりとなる。
このように創業以来10年経った金剛は、その間、法人組織をとり、宮崎営業所・大分営業所を開設、いままた、福岡営業所を開設する一方、総合商社として、またスチール家具のメーカーとしての活動を軌道に乗せた。そして、熊本に「金剛あり」と注目を浴びるようになったのである。このとき、世界ではソ連が人工衛星第1号の打ち上げに成功した画期的な年でもあった。

原本 P.40〜41
1958年KONGO 11年/昭和 33 年建機メーカーのトップ、小松製作所と提携
ブルドーザーの販売は年間100台、シェア80%。“国土を拓く担い手”として、金剛の建設機械が動きだす。一方、工場の騒音対策が次の決断を迫っていた。
◆ 金剛の歩み
- 1月東京進出の準備に着手
- 4月建設機械トップメーカー・小松製作所の熊本県総代理店となる
◆ 日本・世界の動き
- 1月欧州共同市場(EEC)発足
- 1月米国が人工衛星の打ち上げに成功
- 3月関門国道トンネルが開通して海上輸送から陸上輸送時代へ
- 4月売春防止法施行
- 5月2大政党下、初の衆議院選挙
- 6月第2次岸信介内閣成立
- 9月台風22号が伊豆に上陸。死者334人、全壊流失1044戸の被害
- 11月東京—神戸間で特急「こだま」の運転開始
- 12月1万円札を発行
- 12月東京タワー(高さ333m)の完工式を挙行
建機メーカーのトップ、小松製作所と提携
スチール製品のメーカーに転身した金剛は販売網でも、熊本県内はもとより、宮崎、大分、福岡と営業所を開設して販路を開拓していった。
朝鮮戦争が始まってから在日米軍が購入した家具類は、全部木製でなくスチール製。国内の木材資源も少なくなっており、そうした状況も、ひとつの要因と見てスチールメーカーへの転換を考えた── 谷脇社長
スチール製品は時代の流れでもあったようだ。ロッカー、スチール棚など次々に新製品を生み出していったが、なかでもキャビネットは、官公庁からの注文に応じきれぬほどで、急造の小規模工場では対応ができなかった。
当時、従業員も50人程度で、創業時に比べると、かなり増えていた。スチール家具の生産を開始するのと時期を同じくして、建設機械部門の販売高も急激に上昇してきた。金剛の建設機械部は鷹尾顕之助とともに発展してきたと言っても過言ではない。熊本市の大水害(6・26水害)の復旧ブームに、なくてはならぬ存在となった大型土木機械のブルドーザーや、パワーシャベル、ベルトコンベアー、大型ダンプカー等の建設関係の諸機械類や重車両は、その後も国土開発政策、県の振興計画と相まって建設投資を促進、特に公共団体の土木工事関係は大幅な伸びを見せた。その他、道路、橋梁・港湾、ダム、住宅、ビル等の建設工事は、わが国経済の発展につながり、年とともに急上昇を続けた。このように金剛の建設機械は、“国土を拓く担い手”として存在するようになり、顧客の要求を満足させる建設機械の販売に奉仕し続けてきたのである。
この時期に、土木建設機械の花形ブルドーザーが登場してくる。当時、わが国最大手の建設機械トップメーカーの小松製作所とのタイアップの話がまとまり、金剛が熊本県総代理店となる。この小松製作所との総代理店契約は、金剛の業績に大きく寄与することに。その後、ブルドーザーの販売は、年間100台を数え、80%のシェアを誇り、国土の開発に必要不可欠の機械力として、大きな貢献を果たした。

騒音対策で工場用地を物色
一方、本社内の倉庫に急造した工場からは、連日、機械のうなりや、鉄板のかん高い音、溶接の鋭い音などが辺り一帯に響いて、周辺住民から騒音に対する苦情が相次いだ。中心街のなかにあるので、騒音対策もままならず、かといって、次第に増えていく注文に十分応えるためには、生産の音を止めることができなかった。谷脇社長にとっても、この騒音対策を何とか早く解決しなければならないと、次なる決断が迫られた。
注文が増え続ける中、確かに工場自体が全く狭い。設備の増強や、資材、製品の置き場も絶対必要で、騒音に対する周辺住民からの苦情も併せて解決するには、工場を移転する以外にない。こうして新工場用地の物色が始まったのである。
これほど工場が拡張され機械化されようとは予想もしなかった。また現在の製品が当時のものに比べ、全く比較にならぬほど高度になっており、感無量だ── 松尾慶弥(当時の社内報より)
よく売れるキャビネット
当時、売れ筋の商品としてはキャビネットが1番。官公庁からの受注がほとんどで、とにかくよく売れた。この売り上げが新工場建設に大きく寄与したのである。このようにメーカーに転身したといっても、営業活動は会社の両輪の一つである。九州地区では、すでに宮崎、大分、福岡の三営業所が営業の第一線で奮闘を続けて、県外における販路開拓に努めていた。当初は本社との兼任ということもあり、本社と営業所をピストンのように飛び回ることも珍しくなかった。
金剛の特色の一つに社員研修制度があって、商品知識の研究も重要な一つである。当時、販売商品のなかにコトブキ製のものがあり、その製品の性能等を勉強するため郡山健が実習のため数カ月出張して技術と知識を習得、金剛のコトブキ製品販売に大変役立った。
このような社員の努力をバックに、東京進出の話が持ち上がった。スチール家具を主体に谷脇社長は「何としても最大市場である東京に進出しなければならぬ」との信念から、同市場に対する市場リサーチを開始した。もちろん、これは時機を見て東京出張所を開設するという前提に立っての計画である。
昭和30年から33年にかけて、新入社員も本社8人、工場6人、福岡営業所2人、宮崎営業所1人、その他1人の計18人が新戦力として参加。谷脇社長の鋭い経営戦略は、止まるところを知らず前進を続ける。社員も一致協力を惜しまずに汗を流した。ひとつの家族のような体制は、わが国経済の高度成長とともに、会社を発展させ、一枚岩の組織が着々とつくられていった。


原本 P.42〜43
1959年KONGO 12年/昭和 34 年池田町に新鋭工場を新築移転/「コンゴースーパー金庫」が誕生
約3500㎡の敷地を確保し、上熊本の地に新工場が完成。同じ年、後の看板製品となる「コンゴースーパー金庫」が誕生した。
◆ 金剛の歩み
- 1月東京事務所を東京都豊島区池袋に開設
- 1月耐火スーパー金庫「コンゴースーパー金庫」の生産を開始
- 3月竹永秀幸入社
- 7月塩﨑賢治入社
- 9月金庫・スチール家具工場を、熊本市池田町875番地(現在の上熊本本社)に新築移転、最新の設備を導入して量産体制を整える
◆ 日本・世界の動き
- 1月キューバ革命
- 2月新硬貨として、100円銀貨、50円ニッケル貨、10円青銅貨が出る
- 4月皇太子明仁親王、正田美智子さんと挙式、テレビの売れ行きが急増
- 5月東京都の人口が世界一に
- 9月ソ連首相フルシチョフが訪米
- 9月伊勢湾台風が襲い、死者5041人
- 11月国民年金法が施行される
東京事務所を開設
巨大市場・東京への進出は前年からの懸案だった。まず、その足掛かりとして年明け早々の1月、東京都豊島区池袋に東京事務所を開設。事務所はサワダ製図器内に置き、東京の市場調査及び各種の仕入れ情報の収集に当たった。同製図器社長の澤田義信氏は、本業の製図器類の卸・小売りをしながら、自宅兼事務所の一部を提供するなど、何かと金剛のために尽力してくれた。谷脇社長も東京事務所を拠点としながら、会社の活動基盤づくりを進めていった。
「コンゴースーパー金庫」が誕生
スチール家具類の生産は順調に進行、約150坪のミニ工場では、フル生産しても受注に応じきれない状態が続く。この年、池田有作、稲田睦穂、三池義輝らが相次いで入社。金庫をはじめ鉄扉、キャビネット、ロッカーの生産に夜遅くまで残業しながら新製品の開拓に全力を尽くす。
こうした状況下に、耐火金庫が開発された。技術力を結集して造り出された記念すべき金庫は「コンゴースーパー金庫」と命名されたが、実に、金剛の主力製品の一つに数えられる商品となったのである。従来の重厚な感じの金庫に対して、同金庫は、シンプルで美しいデザインの近代的な金庫であった。建設省建築研究所で実施された耐火テストでも、摂氏1000度の高熱の中、2時間も耐えた。当時としては驚異的なもので、金庫の使命とも言うべき耐火性の優秀さを十分証明して市販されることになった。金剛は自信を持って、販売に乗り出したのである。

池田町に新鋭工場を新築移転
会社にとって、この年最大の課題は、何と言っても新工場の新築移転であった。わずか150坪の工場では、能力の限界に達していた。飛躍的に増大する受注に応ずるためにはどうしても工場を移転して新鋭設備を導入することが急務だった。かねて古閑正俊を中心に、工場用地の物色に当たっていたとき白羽の矢が立ったのが、熊本市池田町の現工場敷地である。用地は、九州の幹線鉄道・鹿児島本線の上熊本駅に近く、環境の良い場所にあった。早速、農地だった用地の買収交渉が進められた。買収には、かなりの日時と苦労を要したが、遂に約3500㎡(1100坪)の敷地を確保することができた。宅地造成、工場用地への転用を完了して、4月に新工場の建設にこぎつけた。
11月に新工場の完工式と祝賀会
10月中旬、金剛の金庫スチール家具工場は装いも新たに操業を開始した。11月10日午前11時から新工場で完工式、正午から鶴屋百貨店で、国の出先官公庁はじめ九州各県関係者、主要取引先ら二百数十人を招いて披露パーティーを開催した。新工場は、木造平屋建て、広さ1650㎡で、裁断機、プレス、電気溶接機をはじめ、九州では、まだどこも採用していない塗装の赤外線乾燥装置など、製造工程にセミ・オートメーション式を採用、スチールのキャビネット、家具、金庫などのメーカーとしては、九州でもトップの工場として誇れる新鋭機械類を導入、量産体制を整えた。

初代工場長に喜多秀雄課長
初代工場長には、喜多秀雄営業二課長が、兼務のまま任命された。工場副長には沢野親、管理課主任に古閑正俊が任命され、新しい組織のもとに力強いスタートが切られ、頼もしい生産の響きを上げたのである。当然のことだが、新工場の操業開始によって生産力は従来よりも数倍に飛躍、主力製品の「コンゴースーパー金庫」の生産が本格化した。
当時、喜多秀雄工場長とともに工場用地の買収交渉の中心だった、古閑正俊管理課主任(現在、金剛OB会不知火会会長)は、「喜多工場長と一緒に地権者と夜中まで粘り強く交渉を続けた」と、交渉の模様を語った。初め購入用地の面積は3反(900坪)で、地権者は三人。古閑主任は、土地の取得よりも、地権者の理解を得ることに努めた。何よりも地元の発展のためという大義名分について協力を訴えたのである。毎晩、炉端で説得を続けた結果、三人の地権者は快く買収に応じてくれた。用地の地目変換を決める県農地委員会(沢田治男委員長)も協力してくれた。用地買収については、苦労もあったが、結局、喜多工場長、古閑主任の誠意ある交渉が実を結んだと言えよう。これ以降、工場用地の拡張計画は次々に実現していくことになる。


原本 P.44〜45
1960年KONGO 13年/昭和 35 年ユニークな総合商社へ/社員も150人に成長
福岡に念願の倉庫を建設。度量衡から建設機械まで幅広く扱う総合商社であり、メーカーでもある——「熊本に金剛あり」と言われるまでに成長した。
◆ 金剛の歩み
- 4月福岡地区の商品拠点として福岡倉庫を福岡市名島に建設
- 4月坂﨑誠一入社
- 7月谷脇社長、熊本県経営者協会評議員、熊本県経済同友会幹事の要職に就任。県経済界のニューリーダーの一人に
◆ 日本・世界の動き
- 2月皇太子妃殿下、浩宮徳仁親王を御出産
- 6月「日米安保」改定をめぐり全学連デモで東大生樺美智子さん死亡。終日、国会周辺が荒れる
- 7月岸信介内閣が倒れて、池田勇人内閣成立
- 9月池田首相は高度成長・所得倍増の新政策を発表
- 10月浅沼稲次郎社会党委員長が刺殺される
- 11月米国大統領にケネディ当選
福岡に倉庫建設
7月に誕生した池田内閣は、9月に所得倍増計画を公表。日本経済は高度成長へ向かってスタートした。一時的には不況時もあったが、これ以降、全体的に成長を続け、そのエネルギーは、世界各国の驚異の的であった。30年ガット(関税に関する一般協定)加盟、33年日本貿易振興会(JETRO)法の公布、35年の貿易為替の自由化方針の決定など、国際的交流も一段と拡大されていく。
全国的な企業の設備投資と同じように、金剛もスチール家具の新工場を建設したが、生産が受注に追いつかない状態だった。スチール家具の需要は、事務の近代化につれて、ますます増えるばかり。会社で使用している木製のデスクをスチール製に替える移行期にも当たっていた。
こうして、熊本の倉庫だけでは対応できなくなり、需要の多い福岡地区に倉庫を建設する必要が生じた。待望の新倉庫は、4月、福岡市名島に建設され、スチール工場で製造された各種製品やコトブキのイス類が在庫されるようになり、福岡地区の販売と納品が一層スムーズになった。福岡倉庫は、国道3号線に面した人目につきやすい場所で、広さ660㎡(200坪)、総2階建てであった。

ユニークな総合商社へ
福岡市内に念願の倉庫を建設した金剛は、高度成長の歩みを続ける日本経済と歩調を合わせるように、躍進を続けた。
そして、スチール家具のほか度量衡、測量機械、製図機械、光学機械、事務機械、ストーブ、電気製品、金属製イス、机、ブルドーザー、土木建設機械類など、幅広い各種の商品を取り扱うユニークな総合商社として成長するに至った。
商品は、理研光学(=現リコー)、日本光学機械(=現ニコン)はじめ東京光学機械(=現トプコン)、服部時計店、三菱電機、ソニー、丸善、日本計算機、センターストーブ、コトブキ、小松製作所、日本工具製作など、わが国のトップメーカーのものばかりで、どれも金剛にとっては、絶対の自信と誇りを持てる製品ばかりだった。
このように“良い商品”を扱う総合商社であり、メーカーでもある金剛のユニークな企業イメージは、信用の上に「熊本に金剛あり」と言われるまでに大きく成長をみたのである。
谷脇社長、県経済界の表舞台へ
一方、熊本経済界でも、こうした金剛を引っ張る谷脇社長に対する評価が変わらぬはずはない。7月、谷脇社長は、熊本県経済界の要請で熊本県経営者協会評議員、熊本県経済同友会幹事に就任した。当時、谷脇社長も、ようやく本業の方も一応軌道に乗り、発展の方向へ進行中だったので、何か地元のために、役立ちたいと考えていたところであった。こうして、地元経済界発展のために貢献するニューリーダーの一人として第一歩を踏み出し、保守的な熊本経済界に新風を吹き込むことになる。
当時の谷脇社長は、まだ30歳代の若さ。当然、創業者としての自信に満ちており、常に社員の先頭に立って指揮した。松尾慶弥は当時の社長評として「大型爆弾が、うなりを生じて落ち続けていた。とにかく所かまわず、雷が落ちるのには、皆、震え上がったものだ。そのうえ細かい所によく気がつかれる。業務のことはもとよりガラス窓の桟を指でなでて、ほこりがあれば容赦なく爆弾が落ちた」と、厳しさを語っている。若い経営者として、当時は自分に厳しいのと同様、社員に対しても厳しかったようである。
これまで、いろいろな人に出会い教えられたことは、企業にとっての基本は人にあるということだった── 谷脇社長。常に「企業は人なり」を説いて、社員一人ひとりの自覚の大切さを訴えている

社員も150人に成長
金剛も、昭和35年ごろになると、社員約150人を擁する、押しも押されぬ中堅企業に成長。肥後人にはない異質の経営感覚を持った谷脇社長は若い経営者として、県経済界から注目されるようになっていた。昭和35年と言えば、熊本城の天守閣が再建され、第15回国民体育大会が熊本県で開催された年であった。

原本 P.46〜47
1961年KONGO 14年/昭和 36 年工場を拡張、生産力増強へ/売上高10億円を突破
敷地2500坪、建物1000坪へ大幅に拡張増築。社員は終業後も残って整地作業に汗を流した。この年、売上高は初めて10億円を突破する。
◆ 金剛の歩み
- 9月生産力増強のため敷地8250㎡(2500坪)、建物3300㎡(1000坪)に工場を増築拡張、併せて機械設備も増設
- 10月宮崎営業所を宮崎市別府町(現在の宮田町)に新築移転
- 生産部門が軌道に乗り、売上高が10億円を突破
- 10月横井俊文(故人)が新戦力として入社
◆ 日本・世界の動き
- 4月国民年金制度がスタート
- 4月国勢調査で総人口9341万人
- 9月日本赤十字社、愛の献血運動開始
- 10月大相撲の大鵬と柏戸が横綱に
- 12月旧軍人らの内閣要人暗殺陰謀が発覚、13人が逮捕される(三無事件)
- 12月福岡県若松—戸畑間を結ぶ若戸大橋が完成
工場を拡張、生産力増強へ
昭和34年9月、熊本市池田町に建設された新工場も、活発な受注を完全に消化できないようになった。そこで、従来の工場敷地3500㎡(1060坪)、建物1200㎡(363坪)から、敷地8250㎡(2500坪)、建物3300㎡(1000坪)と大幅に拡張増築。建物だけでなく、併せて機械設備類も増設に踏み切った。
国内の景気は36年になると、それまで急ピッチで走り続けた経済が、ややオーバーヒートの様相を呈してきた。大規模工業地帯の開発、地域格差の拡大は、景気を刺激した半面、金融引き締め、設備投資の抑制、公定歩合の引き上げなどの政策を生んだ。後半になると、金融が窮屈になり、中小企業は倒産に追い込まれる状況が生じてきた。このような状況下で、金剛の屋台骨は、いささかも揺らぐことなく、内部留保による自己資本力の充実が、経営を強く支えた。社員たちは生産、販売両面と、工場内外の体質強化に総力を傾けた。

この工場の拡張工事は、増加一途の受注に支障が出ないように突貫工事で行われた。社員は終業後も数時間残って、文字通り総動員態勢で作業に協力した。そうした苦労の末、工事は急ピッチで進み、生産に支障なく完了したのである。鹿児島本線の沿線に建ち並んだ工場外壁の黄色のベルトは、車窓からもよく見えた。
谷脇社長は、増強された工場に、人一倍大きな期待を抱いていた。常に工場を訪れ、現場の生産状況を巡視、従業員の士気を鼓舞した。それに応えるように現場は、高橋明男生産職長を中心に、優良製品の生産に取り組んだ。しかし、増え続ける受注にこの工場の能力でも1年余りで対応できなくなったのである。
宮崎営業所の新築移転
昭和26年2月、宮崎市橘通2丁目に開設された宮崎営業所も、オープンしてから10年が経った。営業所の実力も一応ついてきた。活動エリアも、宮崎市を中心にして、北は臼杵、延岡、高千穂、南は日南、都城へと広がり、金剛のセールスマンは、縦横無尽に飛び回った。本社と同様に取り扱い商品の多い同営業所は行く先々で、顧客の要求を満たすことができた。
そうした状況下で、店舗も手狭になったため、この年10月、宮崎市別府町(現宮田町)へ新築移転することになった。新営業所は、宮崎県庁のすぐ近くで、自治会館、郵政監察局、裁判所、検察庁、農協会館、福祉会館等の主要な機関が並んでおり、セールスにとっては申し分のない場所。新営業所は、1階にショールーム、事務所、倉庫、サービス部が、2階に住居が設けられ、金剛の宮崎における前線基地となった。

代理店システムの効果
金剛の県外営業所の相次ぐシフトとともに見逃せないのが、協力代理店の協力支援体制である。金剛の業績が、破竹の勢いで進んでいった歩調に合わせて、協力してくれた代理店の功績と効果は大きかった。各代理店は、常にスチール家具部門担当の営業三課や工場と緊密な連絡を取りながら、金剛製品の販売に尽くした。
長崎の旭金庫、佐賀の千綿文具店=現チワタ、久永度量衡=現久永、鹿児島しんぶく文具店=現シンブク、高知の金剛測機=現㈱金剛等で、各代理店は金剛が気付かないさまざまな事項について、ときには鋭い指摘をするなど、金剛と一心同体となって、金剛製品販売の先頭に立って努力してくれた。金剛の成長の原動力として、これら代理店の存在は大きいものがある。販売面でも軌道に乗った金剛のスチール家具は、鉄扉、金庫、キャビネット、ロッカー、スチール棚、デスクと、生産品目を拡大していき、この年初めて、売上高が10億円を突破した。
全社員で整地作業
昭和34年9月にスタートした新工場の能力も限界となり、36年には早くも工場増築、用地拡張の必要が生じた。金庫、鉄扉等の製品も、年度末が近づく1月〜3月の期間は、納期に間に合わせるため徹夜作業になることも。一方、工場は建ったが周辺用地の整備は未完成という状況。谷脇社長自らスコップを持って整地作業を行う姿を見て、社員たちも仕事が終わったあと、全員整地作業に汗を流した。
当時、工場の機械設備も増設され、電気工事関係は全部外部に発注していた。同年入社した沢田敏之は、その電気工事の大半を自ら担当するなど、社員の活動は目ざましいものがあった。
そのころから会社の目標は、JIS(日本工業規格)の指定を獲得することだった。私も、JISに関しての知識が不足していたので、教えを乞うたり、当たって砕けろと、自分なりに勉強に取り組み大変有益だった── 古閑正俊管理課主任(当時)
会社全体が、積極的に前へ進んだ年だった。
原本 P.48〜49
1962年KONGO 15年/昭和 37 年工場の第4次増築拡張始まる/自動塗装ラインを導入
業界でも新しいコンベアー式の塗装ラインを導入。材料の前処理から塗装、乾燥まで全自動。「全員セールスエンジニア」の合言葉で、社員は県下を駆け回った。
◆ 金剛の歩み
- 11月塗装工程に力を入れた工場の第4次増築を行う。新しいコンベアー式の塗装ラインを導入して話題となる
◆ 日本・世界の動き
- 2月東京都の人口が1000万人を突破
- 2月国産初の大型電子計算機を発表
- 3月テレビ受信契約者数が1000万突破
- 3月スイスのジュネーブで軍縮会議
- 5月常磐線三河島駅構内で二重衝突、死者160人、重軽傷者325人
- 7月世界最大のタンカー日章丸が進水
- 8月堀江謙一さんが、小型ヨットで太平洋横断に成功
- 9月国産“原子の火”が灯る
- 10月全国総合開発計画を閣議決定
- 10月キューバ危機
工場の第4次増築拡張始まる
工場の第4次増築拡張工事は、昭和37年11月に着手された。当時、公共事業の土木、建築部門は活況を呈し、拡大の一途をたどり、「公共ブーム」とさえ言われていた。道路建設、改良、塗装工事、住宅建築は軒並み増加へ拍車がかかり、一方、民間の設備投資も相次ぎ、企業の設備の近代化が急ピッチで進行した。こうした経済の拡大につれて、金剛の商品は、全て花形商品として重宝がられた。特にスチール家具関係は、重要書類、貴重品を保管するものとして、耐火性、防盗性に優れた「耐火スーパー金庫」、かさばる書類を保管するキャビネット、さらに従業員の厚生面からロッカーの需要が増える一方だった。

自動塗装ラインを導入
工場側でも日夜フル操業が続けられたが、製造工程の合理化が必要ということに決着した。第4次増築にあたっては、特に塗装工程に力を入れ、当時、業界でも新しいコンベアー式の塗装ラインを導入して注目された。この方式は、材料の前処理から塗装、乾燥まで全てコンベアーで自動的に流れ作業をするもので、最新の塗装システムを持った新鋭工場を目指した。この第4次工事が完成したのは明けて38年1月のことである。
新式のコンベアー式塗装ラインが導入されるまでは、鋼板の汚れや油抜きなどに手間がかかっていたが、導入されてからは乾燥までの工程が短縮された。当時はモノづくりに徹し、年度末は2交替制の人海戦術で忙しかった── 小森光雄東京本社取締役
当時、工場従業員は良く頑張った。会社としても工場の施設改善、環境改善は、製品の品質向上にとって大切なので取り組んではいたが、まだ不十分だった。塗装するときスプレーで吹き付ける作業では、それこそ全身に塗料の粉を浴びていたような状態だったから、随分楽になったものだ── 喜多秀雄工場長
昭和32年6月、現銀座通りの熊本市上追廻田畑町の一角に建設されたスチール家具工場が、金剛の第1号工場とすれば、37年11月に着工した上熊本の新工場の増築は第4次に当たる。工場の増強は目まぐるしく実施された。34年9月、同市池田町の現在地に本格工場が新築移転したのを第2次とすれば、36年9月に行われた増築が第3次。第3次の増築からわずか1年余りで第4次の増築に踏み切らざるを得ないとは、予想さえしていなかった。それほど、金剛の製品の売れ行きが好調だったことと、技術革新の流れが速く、それに見合った設備投資が必要で、生産能力の拡張が要求されたのである。金剛にとっては、うれしい誤算だったと言えよう。
全員セールスエンジニア
既成の建物の隣接地の造成をやり、軽量鉄骨で工場が増設された。工場長には喜多秀雄さんが常駐。社員は皆“セールスエンジニア”として活動した。従来のローラーコンベアー式のものから静電塗装の新方式が導入されて生産力もアップ。とにかく、何でもした。私も県下各地にセールスに出かけ、町村にある農業協同組合の理事会に商品の説明のためよく出かけた── 古閑正俊管理課長(当時)
今でも忘れられない思い出は、会社が納入した八代郡千丁村(=現千丁町)農協の金庫室と鉄扉が火災にあったときだ。私も納入しただけに、この火災で、金庫室がどうなったか大変気がかりだった。火災に遭った金庫室の鉄扉を開けるとき立ち会ったが、鉄扉は1.5㎜〜2.0㎜しか変色していなかったのでホッと安心した。その時は、みな万歳を叫んで感謝された」と、喜びを語る。


原本 P.50〜51
1963年KONGO 16年/昭和 38 年創業15周年記念式典/谷脇社長、海外視察の旅へ
欧州8カ国と東南アジアを巡る55日間。「これからは国際的視野をもって経営に当たらなければならない」——金剛の“国際化元年”。
◆ 金剛の歩み
- 1月19日創業15周年。記念事業の一つとして進められた、工場の第4次増築拡張工事が完了。記念式典を行う
- 3月日本工業規格(JIS)マーク取得のため社内標準化推進委員会を設置
- 5月北九州出張所を北九州市小倉区下到津産川町2に開設。初代所長に奈良崎晋也就任
- 10月四国出張所を松山市歩行町1丁目4-2に開設。初代所長に樋口義一就任
- 10月谷脇社長が欧州視察団の一員として渡欧。その後、単身で東南アジアを歴訪(55日間)
◆ 日本・世界の動き
- 2月北九州市が誕生
- 7月老人福祉法公布
- 12月第3次池田勇人内閣が成立
盛大に創業15周年記念式典
創業15周年記念事業の一環として計画実施された工場の第4次増築工事は1月早々に完成。同時に、塗装工程にコンベアー式システムが採用され、これを機に生産力は大幅に向上した。1月19日、新工場に寺本広作県知事、石坂繁熊本市長はじめ各界の来賓を招き、盛大に記念式典が開かれた。

JISマーク取得へ
時代とともにスチール家具も、新しい感覚や技術が要求されつつあった。金剛の技術陣も、こうした要求に対応するためベテラン組と新鋭の技術者が一体となり、絶えず研究が続けられた。
当時、全国的に建設ブームは続いており、それらの新築ビルには、備品としてスチール家具は必需品となっていた。ただ、ビルにマッチしただけでなく、事務の合理化に適したものが要求されるようになっていたのである。そこで社内では日本工業規格(JISマーク)を取得するため、3月に「標準化推進委員会」を設置、社内規格の作成や検査係を設けて、工程管理を一層厳しくして不良品の減少を図り、統計化して九州通産局に審査申請書を提出した。
積極的に県外拠点づくり
昭和38年は、積極的に県外拠点づくりが進められた年だった。2月10日、人口100万の北九州市(小倉・戸畑・八幡・若松・門司の5市)が誕生した。谷脇社長は、早くから北九州経済圏の動向に目を付けていた。「5市が合併すれば、人口100万人の大都市になる。八幡製鉄(現新日本製鉄)を柱とした北九州工業地帯の企業の多さと、人口密度の高い消費量をターゲットにすべきだ」と判断。合併から3カ月後の5月、福岡営業所の出先機関として、北九州市小倉区に、北九州出張所を開設した。初代所長は奈良崎晋也が就任。新商圏は、福岡市に劣らぬほど商社の出先機関が多く、販売競争は激烈を極めた。しかし、地道に誠実を通した金剛の商法は、北九州市役所をはじめ門司鉄道管理局、住友金属など官公庁や大手企業に食い込み、徐々に真価を発揮するようになる。
さらに10月、四国出張所を松山市に開設。初代所長に樋口義一が任命された。それまで同地方は、全部代理店任せだったが、メーカーとして直接、顧客開拓に当たり、代理店を積極的に支援するため自前の出張所が必要だった。四国地方は、もともと地の利を生かした地場企業の強い地盤なので、新しい地域への進出には固い壁もあったが、誠実をモットーにした金剛の活動は、ここでも見事に花を咲かせ、実を結んだ。

谷脇社長、海外視察の旅へ
谷脇社長は早くから海外市場へ注目していた。会社創業15周年を迎えた、この年10月、九州生産性本部による中小企業共同化欧州視察団の訪欧に参加。初めてヨーロッパを訪れた。同視察団は、欧州各国の経済事情と工業技術を詳しく視察し、日本経済に反映させるため計画されたもので、団長は琴坂重幸福岡通産局長。視察団はドイツ、フランス、イタリア、デンマーク、ベルギー、スイス、オランダ、イギリスを歴訪。
谷脇社長は、この視察旅行で、各国が個性に適した生産性と経済機構の下に国づくりに励む姿に接して得るところがあった。「百聞は一見にしかず」。谷脇社長にとって有意義な海外視察だった。
谷脇社長は、この視察のあと、一人で東南アジア歴訪の旅へ。かねて金剛のスチール家具の輸出について、まず近隣の東南アジアへの進出がもくろまれていたし、今回のヨーロッパ各国の視察によって感じた個性的、独創的な輸出のやり方に関心を強めたからにほかならない。タイの首都バンコク、シンガポール、香港と歴訪した谷脇社長は、スチール家具メーカーの立場から、それら各国の経済力と備品を詳しく視察。各国の都市で、実力のある商社と話し合いを進めた結果、明るい予測をつかんだのである。
これからは国際的視野をもって経営に当たらなければならない── 55日間の欧州・東南アジア視察を終えて 谷脇社長
また欧州各国民の、すばらしい愛国心と、生産への意欲に感銘を受けるとともに、東南アジア各国の日本への依存度が高いことを知り、新たな意欲と情熱が湧いた。昭和38年は、金剛にとっては“国際化元年”に当たり、今後の海外との商談について、明るい展望が開かれ、さらに取り引きの活発化が期待されることになった。金剛の海外戦略は1年後、見事に開花する。一方、生産力の増強に迫られ、12月に第5次の工場増築拡張工事が実施された。

原本 P.52〜53
1964年KONGO 17年/昭和 39 年待望のJIS工場に認可/東南アジアに初の輸出
東京オリンピックの年、金剛にも二つの金メダル。JIS表示工場の認可と、シンガポールへの初輸出である。
◆ 金剛の歩み
- 1月東京事務所を出張所に昇格。初代所長に澤田義信就任。本格的な営業活動を展開
- 2月第5次工場増築拡張工事が完了。塗装部門工程を全面オートメーション化
- 3月金剛土地株式会社(=現株式会社コンゴーハウス)を設立。宅地造成・分譲分野へ進出
- 3月藤本政勝入社
- 5月土地開発事業がスタート、第1号として熊本市清水町兎谷の開発に着手
- 5月8日通産省より、日本工業規格(JIS)表示工場として認可される
- 10月「清水ケ丘団地」の分譲開始
- 11月東南アジア(シンガポール)に、スーパー金庫など初輸出
◆ 日本・世界の動き
- 10月新幹線東京—新大阪が開通
- 10月東京オリンピック開幕
- 11月佐藤栄作新内閣が発足
東京事務所を出張所に昇格
昭和39年は、東京オリンピックが開かれ、新幹線東京—新大阪間が開通した画期的な年だった。金剛にとっても輝かしい1年で、まず1月、5年前の34年に、東京進出の足掛かりとしてスタートした東京事務所(東京都豊島区池袋)を出張所に昇格するとともに、より交通の便の良い港区六本木4丁目11-9に移転した。初代所長は澤田義信が任命された。出張所に看板が変わったのを機に、営業活動も一段と活発化。会計検査院はじめ諸政府機関、主要大学、小松製作所等の受注に成功。また各販売店との提携にも力を注ぎ、一体となって販売活動を展開した。


第5次工場増築が完成
既に数次にわたって増築拡張が行われた工場だが、前年12月には第5次増築拡張工事が着手された。急ピッチで始まった工事は2月に完成、16500㎡(5000坪)の敷地に、9900㎡(3000坪)の建物を擁する工場となった。「大量生産には、設備の合理化が重要である」との観点から、新工場には大幅な合理化を狙った新しい設備が導入された。従来、スチール家具の生産上、ウィークポイントだった塗装部門の工程に、全面的にオートメーション・システムを採用したことである。この新システムによって、スチール家具の生産は大きく飛躍、作業の効率化が前進した。
宅地造成・分譲分野へ進出
谷脇社長は、かねてから社員の持家制度をつくり、マイホームの実現を考えていた。そうした背景もあって3月、「金剛土地株式会社」を設立、宅地造成・分譲分野へ進出することになった。取締役社長に谷脇源資、取締役には、谷脇ユミ子。金剛より郡山健が常務取締役として就任。まず手始めに、文化住宅の建設用地として熊本市清水町兎谷に造成工事が開始された。同地は熊本市の北部に位置する立田山系の一角で、住宅にふさわしい静かで緑豊かな環境と景観に恵まれていた。谷脇社長は、理想的な高級住宅地を造成する構想を立て、約23万1000㎡(7万坪)の用地を取得。5月21日に第1期の起工式を挙行、10月には早くも20戸の住宅を完成し、好調なスタートを切ることができた。
この住宅地の名称は一般公募され「清水ケ丘団地」と命名された。同工事は3期に分けて実施、バス路線も開設され、地域発展に向けて金剛土地㈱の役割は、大いに期待された。

待望のJIS工場に認可
5月8日、時の福田一通産大臣から金剛工場を、日本工業規格(JIS)の表示工場として認可する旨の通知が届いた。待望の朗報に全社員は、お互い肩を叩き合い、万歳を叫んだ。前年3月、JIS工場認可のため社内標準化推進委員会を設置。福岡通産局へ審査申請書を提出。3月3日、工場審査にこぎつけることができたのである。谷脇社長、喜多工場長の認可獲得への奮闘ぶりは社員の語り草となっている。
このJISマークの表示は工業製品を生産する業者にとって最も栄えある資格で、厳しい規定と高い信頼度が、工場の設備と製品に要求される。この規格に合格したことは工場と製品が、一級品である証明にほかならない。全国でも数百社に上るスチール家具メーカーで、このJISマークを持ったメーカーは十数社に過ぎず、九州のメーカーでは金剛だけという輝かしい資格をものにしたのである。
東南アジアに初の輸出
JIS取得に活気づく金剛は、11月末、シンガポールにスーパー金庫を輸出。これが輸出第1号となる。これは前年秋、谷脇社長、喜多工場長が相次いで東南アジア諸国の市場開拓のため歴訪した後、綿密な販路についての調査が行われた成果である。
金剛の製品は、日本製としての誇りと自信を持っている。日本製品として汚点を残さない立派な製品を造り上げ、さらに輸出に力を入れ、国の輸出振興に微力ながら貢献していきたい── シンガポールへ向けて輸出される日 谷脇社長
国内では日本メーカー同士の競争であるが、今後は外国メーカー、特にアメリカ、イギリスのメーカー相手の国際競争になるわけで、金剛にとっても正念場を迎えたとも言えた。事実、日本製品の優秀さは輸出の増大によって証明された。このシンガポール向けの輸出は、金剛の輸出史上の1ページに当たり、これを機に次々と輸出が増加していった。昭和39年は金剛にとってオリンピックに匹敵する、記念すべき年であった。
原本 P.54〜55
1965年KONGO 18年/昭和 40 年年商16億円企業に成長/社内報「コンゴー」を発刊
6次にわたる工場の増築拡張で、西日本一の新鋭スチール家具工場と折り紙が付く。社内報「コンゴー」が創刊されたのもこの年。
◆ 金剛の歩み
- 1月第6次工場増築拡張工事が完成
- 1月社内報「コンゴー」発刊
- 4月沖縄の琉球政府(当時)にスーパー金庫200台を輸出
- 5月本渡市に天草出張所を開設。初代所長に村中俊則就任
- 5月谷脇社長の提唱で、「熊本工業クラブ」を結成
- 10月タイ・バンコクで開催された「西日本物産展」に参加
◆ 日本・世界の動き
- 2月米軍機が北ベトナムを爆撃開始
- 3月ソ連が初の宇宙遊泳に成功
- 6月山野炭鉱ガス爆発。死者237人
- 10月朝永振一郎氏にノーベル物理学賞
- 12月総理府、国勢調査の概況発表。総人口は9828万人
- 12月日韓条約が成立
年商16億円企業に成長
金剛は昭和40年、年商16億円の企業に成長した。創業以来、上昇一途をたどってきたが、単にラッキーと言うのは誤りで、金剛スピリット—気迫、根性、誠実、信用、奉仕といった企業としての鉄則を全社員が自覚して行動したからである。特に谷脇社長の右腕、谷脇ユミ子副社長の愛情、喜多工場長の気迫、松尾部長の情熱、鷹尾部長の根性と、これら優れた個性を持った経営陣の好リードが、会社の売上高を伸ばす要因となった。
毎年20〜30%の伸び率を示す売上高は、とりも直さず企業の力の伸びである。販売面では、スチール家具の飛躍とともに、土木建設機械も伸長した時期でもある。その他、リコー製品を主とした測量器械、堅牢さと楽しいムードを作るコトブキのイス等が、販売上、大きな柱となった。
第6次工場増築拡張に着工
昭和39年2月、第5次の増築拡張工事は終わったが、同年7月4日に第6次の増築拡張工事に着工、40年1月に完成をみた。新工場はコンゴー製品の海外輸出の増加に備え、主にスーパー金庫と鉄扉の生産に当たった。完成後は生産力が倍加され、即納体制が可能となった。また、新工場には建設機械の展示場も設置された。6次にわたる工場の増築拡張は、その設備とともに既に西日本一の新鋭スチール家具工場として、業界から折り紙が付けられた。

社内報「コンゴー」を発刊
会社の進展につれて、社員数も増え続け、40年には営業部門150人、生産部門130人、総数280人の陣容に。そこで、会社と社員、社員相互の意思疎通を図るため社内報「コンゴー」を発行することになり、創刊号が1月に発刊された。B5判32ページ建ての社内報は、ダブルトーンのカラー写真で装丁され、社内情報の新しいメディアとして好評を博した。季刊で発行部数は1500部。社員のほか、得意先や取引メーカーにも配布され、企業PRにも一役買うことになった。
表紙を開けば、社訓と基本方針がひときわ目に付く。いわく、「最高の人格・最高の信用・最高の実力」。何としても最高のモノをつくらずにはおかない、という信念の社訓である。

琉球政府と大型契約
昭和39年シンガポールへ輸出第1号としてスーパー金庫を送り出したが、その第2号として4月、沖縄の琉球政府に同金庫200台の大型輸出があり、琉球図書館に大量のスチール棚を納入した。この大型契約も堂々と品質で勝負した成果だった。こうして海外輸出は順調な滑り出しを見せた。一方、国内における営業網の新規展開も進み、5月に、本渡市本渡町上町(現中央新町)に天草出張所を開設、初代所長に村中俊則が就任した。
「熊本工業クラブ」を結成
谷脇社長は、熊本県の工業振興と技術革新を図るため、当時の川田栄三肥後銀行頭取と、平塚泰三熊本経済同友会代表幹事と相談して5月「熊本工業クラブ」を結成。県の有力企業が加盟し、新進気鋭の経営者グループとして発足した。谷脇社長は初代代表幹事の一人に選任され、月1回の例会では、県内工業の実態研究や企業の合理化等について討議された。谷脇社長は中小企業庁から九州地区金属家具実態調査員に、総理府から国政モニターとして委嘱された。谷脇社長は、経済人として、工業人として広く社会のために、尽力することになった。
タイの「西日本物産展」に参加
谷脇社長と喜多工場長の海外における活躍は、昭和40年も続く。4月に東南アジア調査団の一員として20日間にわたり経済視察に同行。さらに10月、タイのバンコクで開催された「西日本物産展」に出展参加した。同物産展で金剛のスーパー金庫、スチール棚がタイの首都に展示されたのである。同展は非常に好評で、金剛にとって多くの商談が成立した。出席した喜多工場長も、多くの現地商社と商談して、成果を挙げることができ、代理店の設置に結びついた。今日では、これらの海外代理店との間に、スーパー金庫、スチール棚が相次いで契約され「KONGO」マークが輸出されている。

原本 P.56〜57
1966年KONGO 19年/昭和 41 年ラック分野へ進出/社員から初の重役登用
九州にあった16社のスチール家具メーカーのうち、生き残ったのは金剛だけ。次の柱を求めて、ラック(棚)分野への進出を決断する。
◆ 金剛の歩み
- 1月家庭用のホーム金庫を試作、耐火テストに合格。生産・販売に乗り出す。引き続き、新製品として「スーパースライドラック」の生産・販売を開始
- 8月初めて社員からの重役が誕生
- 11月谷脇社長、東南アジア視察へ
- 12月住友セメントの販売開始
- 12月人吉出張所を開設。初代所長に喜多光雄就任
- 12月沖縄に初の海外駐在員を設置
- 12月第7次工場拡張に着手
◆ 日本・世界の動き
- 2月羽田沖で全日空機が墜落、133人死亡
- 5月米国の原子力潜水艦、横須賀に初入港
- 8月日本初のテレビカメラ積載ロケット打ち上げ。テレビ放送成功
ラック分野へ進出
昭和41年は、金剛にとっても新分野のラック(棚)業へ進出した画期的な年である。そのころ、さしも好調だったキャビネット、ロッカー等の販売に陰りが見えはじめた。39年には供給過剰による価格下落でメーカーの倒産が始まった。41年には、九州にあった16社のスチール家具メーカーのうち、生き残ったのは金剛だけ。しかし、生き残ったものの当時、金剛の生産部門に占めるスチール家具の売上高の比率は全体の80%を占めており、これに依存する体質は、経営の上で極めて大きな問題だった。
谷脇社長は、スチール家具に代わるものは何か、必死で研究した。そこで浮かんだのがラック(棚工事)分野への進出だった。資金面では余裕があったので、5カ年計画によるラック業への進出を決断した。当時、図書館分野のラックで、九州には専門メーカーはなかった。何よりも現状の人員、技術、設備で即応できるのがメリットでもあった。
中央のライバル社との価格競争は予想以上に厳しく、作れば売れるものと思っていた私は、このとき初めてメーカーの難しさを味わった。資金づくりの苦労とともに、事業の恐ろしさを肌身に感じた── 谷脇社長
ラックの販売は徐々に実績を上げ、当初の納入先は一部流通業界だったが、次第に熊本大学をはじめ、九州大学、九州工業大学、佐賀大学など大学関係の図書館の実績も増えていった。

新製品の開発相次ぐ
この年、新製品を開発して発売へ結びついたものに、家庭用の「コンゴースーパーホーム金庫」と「コンゴースーパースライドラック」がある。ホーム金庫は、家庭でも金庫を備える風潮があるのを先取り、小型で低価格の経済性を狙った点が一般家庭に受けた。一方の「スーパースライドラック」は、書架をスライド式にすることで設置も操作も簡単で安全性等が優れ、何よりも限られたスペースをより効率的に使える点が重宝がられた。
社員から初の重役登用
創業から20年近く経過すると、かなり社員の中にも人材が育ってくる。社員から初の重役登用が8月に実行された。これは新しい試みであり、社員に良い刺激剤となったのは言うまでもない。新取締役には、喜多秀雄、松尾慶弥、鷹尾顕之助の三人が選任された。新戦力を増した金剛の経営陣は、より一段と実行力を備えて前進することになった。
谷脇社長は、11月5日から15日間にわたって香港・クアラルンプール・バンコク・シンガポール・台北・沖縄の各地を視察。現地の代理店とともにマーケティング調査を行い成果を上げた。この視察は、香港で開催された「西日本観光物産展」に出展した状況視察を兼ねたものだったが、予想以上の好成績でスチール家具輸出に明るい兆しを感じたのと同時に、東南アジア各地で活躍する華僑の根性に“開眼”させられたという。
住友セメント販売へ
12月1日を期して、住友商事とタイアップ、住友セメントの販売を開始した。セメントは国土開発上、必需品であり、建設機械とも密接な関係がある。金剛は、三井、三菱と肩を並べる住友商事とタイアップすることに踏み切り、熊本県の代理店となった。
それに伴い建材全般を取り扱うように領域を広げた。それまで建材としては、鋼製足場、サポート等の製品は扱っていたが、需要の増大と種目の増加につれ、建設機械とは別の分野として建材部門の充実が求められてきた。こうした時代の流れと、得意先の要求で、サッシ、ガードレール、メタルフォームなど建材全般にわたって取り扱いを開始したのだった。
沖縄に初の海外駐在所
東南アジア向け輸出へ進出した金剛は12月に、前年、大口取引があった沖縄・那覇市に、初の海外駐在所を開設。初代駐在員に藤井義継(当時長崎地区担当)を任命。従来、沖縄地区は石川文明堂(=現ジムキ文明堂)に依存していたが、直接メーカーからの応援ということで、同店内に設置された。同じく12月、人吉市下青井町に人吉出張所が開設されて、初代所長に喜多光雄が任命された。前年開設された天草出張所とともに、熊本市からは遠隔地だけに、販売のスピードアップとアフターサービスの促進にプラスとなった。

原本 P.58〜59
1967年KONGO 20年/昭和 42 年創業20周年・成人式を迎える
県立図書館への書架納入、輸出貢献企業の認定、そして盛大な20周年記念式典。谷脇社長が「終生忘れ得ぬ感激の日」と語った年。
◆ 金剛の歩み
- 1月4日谷脇社長が経営会議で、創業20周年記念事業の実施と、ZD運動の展開を発表、実施へ
- 1月熊本県立図書館にラック(棚)納入
- 3月谷脇社長、韓国経済使節団の一員として訪韓
- 5月成蹊大学(東京)図書館に、積層式スチール書架を納入
- 5月業界初の米国ランズバーグ社の静電式自動塗装機を導入、完全自動化システムが完成。第7次工場増築拡張工事が終了
- 6月28日通産大臣から輸出貢献企業として認定、表彰される
- 10月12日盛大に創業20周年記念式典
◆ 日本・世界の動き
- 4月東京都知事に美濃部亮吉当選
- 7月欧州共同体(EC)成立
創業20周年・成人式を迎える
金剛は、この年、創業20周年—企業としての記念すべき成人式を迎えた。1月4日開かれた経営会議の席上、谷脇社長は創業20周年記念事業の実施とZD(Zero・Defects)運動(無欠点、無欠陥—仕事上の欠点、欠陥をゼロにしようという米国で始まった運動)への取り組みを発表した。記念事業としては、春期に工場の設備強化を図る新式施設の導入、秋期に祝賀式典及び総合大展示ショーを開くことを明らかにした。
ZD運動は、全社員が欠点をなくし、より完全を目指し生産性、利益、信用の向上を図ろうというもの。谷脇社長は年頭にあたって「経営方針こそ繁栄への道」と題して「工場、営業所の拡充、販売網の拡大、金庫・スチール家具の少機種大量生産、少数精鋭主義を全うして総売上を35億円に伸ばそう」と、3カ年計画の遂行を明示した。
県立図書館に書架ラック納入
ラック分野に進出した金剛にとって、何としても県立図書館への納入を実現することが重要課題だった。たまたま、熊本県が熊本市千葉城町に図書館を建設することになり、棚工事を県外ラック業者に発注するとの情報を得た。そこで、谷脇社長は寺本広作県知事(故人)に「県産品を採用して欲しい」と直訴。県産品愛用を提唱していた寺本知事も、谷脇社長の熱意に動かされて採用となった。
これが県立図書館のラック納入第1号となり、以後、この納入実績が国立図書館へのアプローチの決め手となる。次に5月には、東京の成蹊大学図書館に、当時としてはスチール棚の粋を集めた、5層の積層式スチール書架を納入。施工にあたった清水建設から「これまでのスチール書架としては最高」との評価を受け、同大学から感謝状が贈られた。
経済使節団として訪韓
谷脇社長は3月、韓国経済使節団の一員として1週間の日程で訪韓、経済状況を重点的に視察した。特に国立中央図書館、ソウル大学等を中心に設備状況を見て回った。その際、韓国海外技術協会・東傑理事長と、海外研修生を九州の主要企業へ80数人受けいれる件で懇談した。同国研修生の受け入れについては、41年10月から熊本日韓親善協会・平塚泰蔵会長の依頼によって協議が進められていた。この懇談で、ようやく実を結び、41年6月23日、漢陽工科大生の朴夏雨氏が1年間の予定で、第1回研修生として金剛に入社、さらに同年10月、同大生2人が入社した。
第7次工場拡張工事終わる
創業20周年記念事業の一環として実施されていた工場の拡張・設備強化工事は5月に完了。製品の均一化、大量生産を目指した、名実共に九州に誇れる近代工場が実現した。第7次工事は、約1億2000万円が投下され、業界では初の米国ランズバーグ社の静電式自動塗装機を導入、完全自動化システムが完成した。この最新式装置によって、塗料と労力費の節約、製品の均一化に多大の効果が上がった。その他、小物塗装ライン、ストレートサイデット・パワープレス(能力120トンの強力プレス機)、8点マルチスポット(セットして同時に8点のスポット溶接が可能)等の新鋭機が導入された。これによって工程の短縮合理化と生産性の向上が図られた。
輸出貢献企業を認められる
当時、金剛の輸出業務は徐々に増加に向かい、わずかではあるが、国に貢献する企業の仲間入りを果たしていた。この実績が認められて菅野和太郎通産大臣から「輸出貢献企業」の認定を受けた。貿易記念日の6月28日寺本広作県知事から認定証が授与され、価値ある信用を得た。また谷脇社長は、3月に九州山口経済連合会(安川第五郎会長)に生まれた、若手経営者20を中心としたED(Engineering・Developing)グループ=機械工業振興団=の一員に選ばれ、九州地区の機械工業に新風を吹き込んだ。
盛大に20周年記念式典
10月12日、金剛は創業20周年記念式典の日を迎えた。正午、爆竹の音を合図にエレクトーンの演奏に合わせて社歌のメロディーが式場に流れる。喜多秀雄工場長の開会の辞に続き谷脇社長が謝辞を述べたあと、大島俊彦副知事(県知事代理)、石坂繁熊本市長、伊豆富人熊本日日新聞社長、川田栄三肥後銀行頭取、鴻池仙市熊本商工会議所会頭らが順次祝辞を述べた。続いて谷脇社長から学校教育の一助として26基のスチール棚(目録)が、県に贈呈された。続いて社員のコーラスによる社歌の発表があって閉式。祝宴に移った。
一方、3日間にわたって開催された総合大展示会場には、金剛の全商品が展示された。来訪者は延べ4000人を超す盛況ぶりだった。創業以来、誠実と努力で、ひたすら発展の道を歩き続けた金剛のイメージは、来訪者に大きなインパクトを与えたのである。金剛全社員の喜びは、谷脇社長の「終生忘れ得ぬ感激の日」の言葉に凝縮されている。

原本 P.60〜61
1968年KONGO 21年/昭和 43 年二つの大型受注に成功
国立国会図書館と通商産業省総合庁舎。中央の一流メーカーを抑えての金星は、今日の金剛を決定づけた。
◆ 金剛の歩み
- 2月世界第2位(当時)の規模を誇った国会図書館および通産省総合庁舎の棚工事受注に成功
- 5月通産省総合庁舎の棚工事完了
- 6月2年連続、輸出貢献企業に認定
- 10月1日鹿児島出張所を開設。初代所長に武田彰就任
- 10月27日〜11月16日谷脇社長、市場視察のため訪米
- 12月国立国会図書館の棚工事完成
◆ 日本・世界の動き
- 6月小笠原諸島が23年ぶりに返還
- 8月ソ連が「プラハの春」を弾圧
- 10月川端康成にノーベル文学賞
- 10月明治百年記念式典、日本武道館で国の記念式典
- 11月佐藤栄作首相が自民党総裁3選
- 12月府中市で、3億円強奪事件起こる
二つの大型受注に成功
金剛にとって昭和43年は、社運を懸けた年であった。そして、二つの大型受注に成功して、今日の金剛を予測させる記念すべき年となる。
東京に出張所を開設して、各大学などからの棚関係の工事では実績があったが、大型工事の実績はなかった。たまたま年明け早々、2月に国立国会図書館の棚工事の入札が実施されるとの情報を入手。1カ月程度の時間しかなかったが、これに社運を懸け、何としても受注しようと全力を挙げた。なにしろ、大型工事の実績がない九州のメーカーというハンディがあり、指名業者になること自体大きなハードルだった。谷脇社長陣頭指揮の下、入札の結果、中央の一流メーカーを抑さえて、金星を射止めることに成功し、同業者をアッと言わせたのである。この大型工事と並行して実施された、通商産業省総合庁舎のスチール書架工事の入札にも成功、相次いで二つの大型工事を獲得した。
通産省総合庁舎のラック工事は、地上11階、地下2階のビルの各階にコンゴースーパーラック延べ1500連を取り付けるもので、5月31日の納期前に完工。1回の検査でパスした。一方の国立国会図書館の工事も12月末に完成、見事に合格して、金剛製品の優秀さと実績が認められた。この大型工事の受注成功を契機として、国立公文書館、東京都立中央図書館等の契約に結び付くことになる。

指名業者獲得のドラマ
うちには、いつもファンがいるようで、情報は入れてくれるし、ありがたかった。しかし、うちはいわば木造しか造ったことのない田舎大工のようなもので、大きな工事実績もなく、本格的ビルのラック工事の指名業者の仲間に入ることは至難の技だった── 当時を振り返る谷脇社長
しかし、会社の総力を結集して指名業者7社の一角に食い込むことができた。だが、一難去ってまた一難。今度は入札業者の保証が必要だと言う。頭を下げて頼みに回ったところ、ただ1社だけ救いの手を差し伸べてくれた。当時、国内で一番古いラック屋さんのエレコンパックという会社で、社長が保証人になってもいいが、一つだけ条件があると言う。それは、電動式の棚は作らないこと。もちろん、仕事を取るためには条件をのんで、保証人を引き受けてもらった。当時、電動式の棚はラック業界期待の新商品だったがよく故障が起きていた。このときの条件が、わが社の移動棚Z開発のきっかけになったのだから世の中は面白い。まさにドラマとしか言いようがない。
鹿児島出張所を開設
鹿児島地区は、数年来駐在員が常駐して活動を続けていたが、10月1日、鹿児島市武町に出張所を開設、営業活動を開始した。初代出張所長に武田彰が就任。新出張所は鹿児島市の玄関口である西鹿児島駅のすぐ近くだった。また、事務所が手狭で、営業の支障となっていた福岡営業所は、福岡市名島に移転し、12月1日から営業を始めた。新営業所は名島倉庫があった場所で、1階はショールーム、2階が事務所。事務所裏には3階建ての倉庫を建設した。
谷脇社長、米国市場視察へ
昭和43年も前年に続いて、輸出貢献企業に認定された。輸出開始から3年を迎えた金剛は、輸出先も東南アジアからカナダ、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカへと拡大した。谷脇社長は10月27日から11月16日まで20日間、ニューヨークで開催されたNOPA展示会視察を兼ねて、アメリカのスチール家具業界と市場の視察のため訪米した。訪米視察団は一行27人で、ニューヨークのあとワシントン、ロチェスター、バッファロー、シカゴ、ロサンジェルス、サンフランシスコ等を歴訪。アートメタル社、サージェント社、コールスチール社など主なスチール工場を視察した。
アメリカのスチール家具はデラックスで、スチール家具の大半がカラー(原色)で、凝ったデザインが多い。ただ書架については、日本の方が進んでいる── 谷脇社長
「スーパーラックハウス」生産
金剛は、小松化成と共同で「スーパーラックハウス」を開発し、共同生産に入った。これは、金剛が建物の支柱となる部分のスチールラックを施工。その外壁と屋根を小松化成が施工するもの。この特徴は何といっても倉庫管理の高層化であり、空間の最大活用、より効率的な利用法で、将来性のある新商品として期待された。

原本 P.62〜63
1969年KONGO 22年/昭和 44 年金剛㈱東京本社を設立
官公庁や大学との取引には、東京に本社があることが求められた。別法人として東京本社を設立。新製品の開発も相次ぐ。
◆ 金剛の歩み
- 1月20日別法人として金剛㈱東京本社を設立
- 1月大阪出張所開設
- 6月倉庫スチール家具工場増設
- 8月「スーパーローラーラック」を生産
- 11月日本工業規格表示許可工場に(耐火書庫)
◆ 日本・世界の動き
- 1月東京大学が入試中止を決定
- 3月八幡、富士両製鉄が合併し調印。新社名は新日本製鉄
- 6月初の原子力船「むつ」進水
- 7月米国のアポロ11号が月面初着陸
- 8月札幌医大の和田教授、日本初の心臓移植手術
- 9月東大航空宇宙研が国産ロケットのラムダ1号機の打ち上げに成功
- 11月巨人、史上初の5連覇達成
金剛㈱東京本社を設立
東京の拠点として、昭和34年、東京南池袋に東京事務所を開設。所長に澤田義信が就任し、35年には目白に移転した。39年、東京事務所を出張所に昇格して営業活動を展開してきた。国立国会図書館や通産省書架、小松製作所関東補給センターの自動倉庫の納入など実績も着々とできてきたので、43年に営業所に昇格して東京都内六本木に事務所を移転、営業所長に立石高之(故人)が就任、同時に社員用の世田谷寮を設置した。
営業実績の向上につれて、金剛としてもイメージアップを図る必要があった。当時は熊本の企業と言ってもほとんど知られていないのが実情だった。やはり東京に本社がある企業でなければ官公庁や大学等では相手にされず、そこで44年1月20日、別法人として金剛㈱東京本社を設立した。一方、関西一円を担当していた大阪事務所は、1月から出張所に昇格、大阪府東淀川区山口町に新事務所を開設した。

スチール家具工場増設計画
スチール家具の生産は、国立国会図書館はじめ通産省総合庁舎や小松製作所のスチールラック納入など、年とともに飛躍的に需要が伸びていた。金剛としては、生産設備の増強に迫られ、工場拡張計画の検討に入った。その結果、既に買収が終わっている工場横の敷地に事務所、設計室を収容する2階建て社屋と、規格品生産工場と製品倉庫を備えた2階建て工場を建設することになり、敷地の整地工事に着手した。これは工場第2次合理化計画(約3億円)の第1期工事に当たり、工費約1億2000万円を投入して、施設と機械の合理化を図るとともに、生産性の向上を狙ったものである。
「スーパーローラーラック」生産
8月には「スーパーローラーラック」の生産が始まった。同製品は、スチールラックの棚板部分にローラーを取り付け、工場で生産された商品が次々にラックにのって格納される方式。この特徴は、ローラーによって新しい商品が、前に生産された商品を後ろから押し出していく、先入れ先出し法。従来の積み上げ方式だと、どうしても下になる古い先の生産品が残るという欠点があった。それをこの方式の導入により全て解消して、生産月日順に出荷を可能にする商品管理の夢を実現させた。たまたま金剛工場の静電式自動塗装設備を見学に来た象印マホービンの担当者が、このスーパーローラーラックに注目、同社との商談がまとまるという一コマもあった。大阪府八尾市に建設された同社の新社屋・工場に、商品管理用として金剛のスーパーローラーラックが設置されたのは8月であった。
活発な新製品の開発
金剛の成長を支える要因の一つは、技術陣による新製品の開発にある。「コンゴー・スーパー鉄扉」をはじめ、「スーパーコンパック(手動式移動棚)」、フローラックハウス(高層自動倉庫)」、指導要録専用金庫(SⅠ型・SⅡ型)、ガードセーフ(投入金庫)、ブラザーセーフ(ツイン金庫)等が相次いで登場した。
なかでも「フローラックハウス」は、建築物自体がラックとなり、柱と梁とが立体的に碁盤の目のように区画され、そのラックの周りをモノレールスタッカーが周回して作業をする新しい方式。製品の部品がパレットに積まれると、モノレールスタッカーがボタン操作で自在に動き、適正個所に入庫される。その後ラックの全フローに取り付けられたローラーコンベアーによって、パレットが自動的に流れ、部品が製造順に出庫されて行く仕掛け。金剛では、名古屋ゴム株式会社(本社名古屋市)稲沢工場のフローラックハウスの新築工事を請け負った。同社はトヨタ自動車㈱の系列。同ハウスは高さ約16m、幅約42m、奥行き約30m、総工費約1億5000万円に上る、当時としては名古屋以西一の規模を誇る工事だった。
「スーパーコンパック」も動く棚で、普通の棚に比べて保管のスペースが半分で済み、文献や書籍の整理・保管や、軽量物品、事務用品の収納に適し、女性でもスムーズに動かせるローラー装置が付いている。種類も固定1列から可動3列、4列、5列までの12種類がある。
ガードセーフは集金業務用の金庫で、銀行閉店後や、夜間の現金や重要書類を守るのに最適。主な使用先は銀行、証券、保険会社、タクシー、クラブ、ガソリンスタンド、病院など。ブラザーセーフは2段式構造で、重要書類の分類・保管に最適。1台で2役の能力を持ち、官公庁や町村役場、学校や会社など用途は広い。


耐火書庫にJISマーク
「コンゴースーパー金庫」をはじめ、各種金庫を開発していた金剛に、朗報が届いた。昭和39年、通産省から日本工業規格表示許可工場の指定を受けていたが、さらに製品の耐火書庫(金庫)に対して、JIS(日本工業規格マーク)の許可が下りたのである。厳しい耐火テストに合格した金剛の耐火金庫の耐火性や安全性、優秀性が証明されたわけで、金剛製金庫は関係方面から一層、厚い信頼を受けるようになった。
原本 P.64〜65
1970年KONGO 23年/昭和 45 年売上高34億円へ/鋼製書架JIS取得第1号
10年間で約3.5倍。「この大勝負は、ちょっとラッキー過ぎた」と語る谷脇社長だが、その裏には新製品開発と“良い品”に徹した経営方針があった。
◆ 金剛の歩み
- 1月鋼製書架JIS取得第1号
- 1月関西支店を目指して活動開始
- 5月国立公文書館の棚工事完成
- 9月昭和45年度の売上高34億円に
◆ 日本・世界の動き
- 2月東大が初の人工衛星打ち上げに成功
- 3月大阪で万国博覧会開会
- 3月赤軍派学生、日航機「よど号」を乗っ取る
- 4月大阪市北区の地下鉄工事現場で都市ガス爆発、死者78人、負傷者420人
- 6月沖縄返還協定に調印
- 11月作家の三島由紀夫ら楯の会5人が自衛隊東部方面総監部に乱入、三島ら2人が割腹自殺
売上高34億円へ
昭和45年度の売上高は34億円に達した。36年度の売上高は約10億円だったから、10年間で約3.5倍の伸びとなった。急成長の原因は、わが国の経済が高度成長路線を走り続けたことにもよるが、何といっても、谷脇社長の機転の利く柔軟性と積極的な“カジ取り”を上げなければならない。加えて39年5月、通産省のJIS指定工場となり、金剛製品の市場における優秀性が評価されたこと、41年にラック(棚)分野へ進出したこと、42年国立国会図書館のラック工事の受注に成功したのが決定打となった。この一打で、金剛の将来の展望が開かれたといっても過言ではなく、以後、中央官公庁への納入が相次ぎ好業績を上げる要因となった。
この大勝負は、ちょっとラッキー過ぎた── 谷脇社長
10年間で約3.5倍も売り上げを伸ばしたことは、常に新しい製品の開発と“良い品”の販売に徹した経営方針によるところが大きい。
鋼製書架JIS取得第1号
コンゴー書架はこの年1月、わが国書架メーカーの中で、JIS第1号を取得した。前年の耐火書庫に続いてJISを取得したことは、「最大より最良を」の企業理念の下、限りない研究・開発と、日ごろの地道な努力の成果である。

順調な図書館関係工事
西日本一の規模を誇る福岡大学図書館の書架工事を手掛けたのをはじめ、図書館関係の書架工事が順調で、金剛は既に業界トップクラスのメーカーの位置を占めるに至った。その国の文化水準は書籍、雑誌、新聞等の出版物の発行数に比例するといわれるが、わが国の発行数は世界第2位。従ってこれを管理する大量の書架が必要で、金剛製書架の需要も旺盛だった。いずれも積層式の本格派で、1月から国立公文書館(3層・SB型)書架工事に着工して、5月に完成した。その他、東京都太田区中央図書館(6層・同)、最高裁判所、鹿児島大学(2層・同)、京浜女子大(3層・同)、小林商業高校(同)、朝鮮大学(同)、久留米高専(2層・同)など、書架工事は目白押しのありさまだった。
関西支店を目指して
昭和44年、大阪出張所には富田省三駐在員をおく程度だったが、45年に入ると関西支店を目指して、1月、喜多秀雄を責任者に派遣した。大阪万博が開かれ、大阪ブームに湧いた時機であり、生産過剰で増えた在庫品の消化が何よりも急務だった。文字通りゼロからの出発だったが、喜多は金剛製品を販売してもらう販売店の開拓に奔走した。1年間は準備期間で、2年目から建設業界紙の新築情報を手掛かりに、手分けして設計事務所を訪問、図書館の書架設計の分野を任せて欲しいと交渉して、この狙いが当たった。喜多は横井俊文とともに関西支店網づくりに努力、5年間の在勤中に、数多くの販売店の協力を取り付け、中国・近畿・四国・東海・北陸のエリアを持った関西支店の基盤を確立した。
販売政策が良かったことだ。他のメーカーより販売店のマージンを多く設定したこと、永く工場勤務をしていたため製品知識が豊富で、その場で商談に応じられたことが成功につながったのではないか。ピンチの後には必ずチャンスがある── 喜多秀雄
猛火に耐えた金庫
昭和45年3月5日深夜、菊池郡泗水町の泗水東小学校が火災で校舎の大半が焼失した。この火災で、図らずも「コンゴースーパー金庫」の優秀さが立証され、町や学校関係者から感謝された。同校には学籍簿を納めるために「スーパー金庫No.5」が納入されていた。火災の翌日、町教育委員会や学校、消防団など立ち会いの上、焼け残った金庫を搬出して扉を開けた瞬間、歓声が上がった。中の学籍簿類は完全な姿で残っていたのである。金庫は耐火性と安全性を発揮し、使命を全うしたわけだ。
最も貴重とされる学籍簿が、見事に保存されたことは全く不幸中の幸いだった。これはコンゴースーパー耐火金庫が、その使命を無事に果たしてくれたためであり、ホッと救われた感じだ── 増田義孝町長


原本 P.66〜67
1971年KONGO 24年/昭和 46 年本社を上熊本工場へ移転/業界初のUL資格を獲得
日本のJISマークと米国のULマークを獲得。「世界の金剛」として世界の一流品の仲間入りが認められた。
◆ 金剛の歩み
- 1月本社を上熊本へ移転
- 4月金庫拡販対策の一環としてGO・GOキャンペーンを展開
- 6月タイから初の研修生
- 6月第9回全国代理店会議を開催
- 6月UL(米国アンダーライターズ研究所)規格表示許可工場となる
◆ 日本・世界の動き
- 4月米中でピンポン外交始まる
- 6月イタイイタイ病で住民側勝訴
- 7月環境庁が発足
- 7月全日空機、岩手県雫石上空で自衛隊機と接触墜落、162人死亡
- 8月日本、ドルショックで円は変動相場制に移行
- 11月日本鉄道建設公団、北海道福島町で青函トンネルの起工式を行う
本社を上熊本工場へ移転
第7次拡張工事も終わり、生産体制が軌道に乗った昭和46年1月早々、銀座通りにあった本社を上熊本工場へ移転した。従来、総務・営業等の事務部門と現業部門が分かれていて、機能上からも非効率であった。こうして名実共に上熊本工場は金剛本社・工場として新しいスタートを切った。
このころ、製品開発もスーパー金庫No.5、H-30、書架ではSAJ型(自立型複柱式)やSB型(自立型単柱式)、エレコンパック(コンパックの電動式)等が相次いで登場。特に金庫販売対策の一つとして第1回GO・GOキャンペーンが展開された。これは金庫の販売実績優秀者を香港旅行に招待する企画。招待客は福岡板付空港からチャーター国際便で、4月22日〜5月29日の間に第1便と第3便、熊本空港から第2便と、それぞれ3班に分かれて出発、好評を博した。
業界初のUL資格を獲得
金剛の金庫は昭和40年から東南アジア地域で実績もできて名前も知られていたが、欧米の市場では残念ながら、まだ無名に等しい存在だった。谷脇社長は、金剛の金庫が国際市場に通用する優秀性を証明するには、先進国の金庫業界が認める米国アンダーライターズ研究所のUL規格表示許可工場の資格を取得することが先決だと、同規格獲得にチャレンジすることを決めた。
UL規格というのは、全米保険協会が全面的にバックアップする生活用品全般の安全性を保証する世界的ライセンスで、合格の印がULマークである。その検査は非常に厳しく、特に過酷なテストには定評がある。
シカゴのUL研究所から調査のため来熊したドッセルド検査官は、約1カ月にわたってマーケット調査や生産工程から部品について詳細なチェックを行った。なかでも耐衝撃落下テストは2000F(1093℃)の炉の中に、冷やされた金庫を入れて急速に加熱して、30フィート(9m)の高さから落下させる過酷なもの。
このテストに挑戦した金剛の金庫は、内部にギッシリ保管された資料に何の異常もなく余裕をもってパス、世界のスタンダード製品として、優秀性が立証され、わが国業界初の快挙として内外に宣伝された。金剛の金庫は、日本のJISマークと米国のULマークを獲得、「世界の金剛」として世界の一流品の仲間入りが認められたのである。




タイから初の研修生を受け入れ
既に韓国からは技術研修生を受け入れていたが、昭和46年9月18日、タイ国から初の研修生としてポーディン君が入社した。研修期間は6カ月間、同君は翌年3月25日、「蛍の光」の音楽に送られて帰国した。その後、タイのセンファー社勤務のソーホン・パンチュパイブン君が、技術研修のため47年1月9日入社した。金剛の国際貢献は地道ながら着実に進行を続ける。
伸びるコンゴースーパー会
昭和46年6月4日、第9回全国代理店会議が2日間にわたって、熊本市のニュースカイホテルで開催された。この全国組織の名称が「コンゴースーパー会」である。東は東北、南は沖縄から全国60社、69人の各代理店の社長、幹部が出席、意見交換を行い、翌5日はAグループ(ゴルフコース)、Bグループ(観光コース)に分かれて親睦を深めた。
「コンゴースーパー会」は、会員相互の信頼と親睦を深め、相互の連絡を密にしてコンゴー製品の販売増進を図り、会員の進歩発展に寄与することを目的に(会則第2章第3条)、36年に設立された。当初、全国一本だった組織を、51年(第13回)に東京・関西・九州の3ブロックに編成、52年(第14回)はブロックごとに、東京・岡山・熊本の各会場で開かれた。さらに東京ブロックの名称を関東に改め、次いで61年には東日本に、平成4年(第29回)以降は、東日本・関西・九州ブロックで構成、運営されている。同会では、業績に応じて金剛大賞、同特別推販賞、同殊勲賞、同飛躍賞など優良販売店を表彰して売上げ向上の一助にしている。
ちなみに創業50周年に当たる平成9年の第34回大会は、11月27、28両日、福岡市のシーホークホテル&リゾートで、3ブロック合同により盛大に開催された。
原本 P.68〜69
1972年KONGO 25年/昭和 47 年技術革新に挑戦/ガセット工法のUラックを開発
UL2時間耐火テストに一発合格。さらに世界初のガセット工法によるUラックを開発し、地震に強い製品を世に出した。
◆ 金剛の歩み
- 6月9日アメリカ・アンダーライターズの金庫2時間耐火テストに合格
- 8月17日〜9月1日谷脇社長は市場調査のためオーストラリアへ
- 9月11日長崎出張所を開設。初代所長に武田彰就任
- 10月1日熊本リコー販売㈱設立
- 10月5日名古屋営業所を開設。初代所長に平里文典就任
- 10月11日山口出張所を開設。初代所長に川口史郎就任
- 10月ガセットUラック新発売
◆ 日本・世界の動き
- 1月グアムで横井庄一さん発見
- 5月沖縄が27年ぶりに日本に復帰
- 7月田中角栄内閣が発足
- 8月ミュンヘン五輪開幕
- 9月田中首相訪中、国交正常化で共同声明
技術革新に挑戦
昭和47年の金剛の歩みの中で特筆しておかねばならないのは、スーパー金庫が規格の中でも特に過酷なことで知られる、アメリカのUL2時間耐火テストに合格したことと、世界初のガセット工法によるUラックを開発、地震に強い製品を発売したことである。
金剛は、46年1月にわが国の金庫業界で初めての、アメリカUL(アンダーライターズ研究所)規格表示許可工場の資格を取得している。このULマーク表示の資格は金庫の「1時間耐火テスト合格」によるものであった。この上のさらに過酷な品質検査が2時間耐火テストで、このテストをクリアしなければ、世界でトップクラスの安全な金庫と誇るわけにはいかない。そこで金剛は、その過酷なテストに挑戦したのである。
6月2日、貿易企画課の立花巌がスーパー金庫の「UL2時間耐火テスト」に立ち会うため渡米した。テストは9日に行われ、その直後に「厳しい2時間耐火テストをゆうゆう1回でパスした」と吉報が入り、本社や工場は「金剛の技術の誇りであるのみならず、日本の金属工業界の名誉」と喜びに沸いた。

スーパー金庫が優秀な耐火性能を示した事件があった。大分県津久見第二中学校が火災で校舎の大半を焼失した。同中学校のスーパー金庫には学籍簿が入れてあったが、中は何の異常もなかった。関係者が固唾を呑んで開扉に立ち会ったが、収納物には異常がないと分かって、どっと歓声と拍手がわき起こったのである。
ガセット工法のUラックを開発
金庫とともに、金剛が開発に力を入れていたのが、スチール製物品棚(ラック)である。当時スチールラックは既にかなり普及していたが、地震に対してはどのメーカーの製品もほとんど無防備であった。地震の波形は極めて複雑なため、棚に物品を収納していた場合、強い地震の時の棚は前後、左右、対角方向いずれかに歪みが生じ、被害を避けられなかった。このため、いかにしてラックに歪みが生じないようにするかが、当面の課題となっていた。
その悩みを解決したのが金剛の「耐震型特殊折り返しガセットプレート」。このガセットプレートを棚の支柱に取り付け、天板・天地板と溶接して一体構造にすることによって棚の構造を一挙に強め、歪みが生じないようにしたのである。1年がかりの研究の末、このガセットプレートを組み込んで、昭和47年10月に新製品発売にこぎつけた。世界初の「ガセット工法によるUラック」である。「Uラック」はガセットプレートを取り付ける棚の支柱の断面が、U字形をしているところから名付けられている。

熊本リコー販売を設立
昭和47年、金剛は事務機器総合メーカーである㈱リコーと特約代理店契約を結び、社内に「リコー事務機販売課」を設けて、顧客の需要に細大漏らさず対応する体制をしいた。しかし、機器のOA化、システム化の急進展に伴い、さらに充実したサービス体制が必要となった。そのため、この年の10月1日、㈱リコーとの共同出資で、熊本リコー販売㈱を設立。代表取締役社長に谷脇源資が就任した。
以来二十数年、同社は他社が真似できないOA機器の品ぞろえを誇り、事務改善へ向けての総合的なプランニングやコンサルティング、導入後のフォロースクールなどにも力を入れて顧客のあらゆるニーズに応えている。現在、同社の扱うOA機器・複写機、ファクシミリは県内業界のトップシェアを占め(※当時の実績です)、光ファイル、ワープロ、パソコン、システム機器、通信機器など幅広い分野にわたって、きめ細かな提案を行っている。なお同社は51年11月、本社社屋を熊本市下南部3丁目10-32に新築移転。62年10月、熊本リコー㈱に商号変更し、今日に至っている。
創業25周年記念式典を挙行
金剛はこの年、創業25周年の記念すべき年を迎えた。草創の苦難を振り返るとともに今後の発展を誓い合って、12月9日に熊本郵便貯金会館で記念式典を開いた。社員および家族など600人が参加、和気あいあいの1日を過ごした。

原本 P.70〜71
1973年KONGO 26年/昭和 48 年金剛ビル設立、新分野に進出
熊本市下通の旧本社跡地に、書店とホテルを備えた金剛ビルを計画。“気配り”の心は、ホテル運営にも受け継がれた。
◆ 金剛の歩み
- 1月金剛ビル設立
- 7月4日熊本市民早起き野球大会でブロック優勝
◆ 日本・世界の動き
- 3月水俣病裁判で患者全面勝訴。チッソに9億3730万円の支払いを求める
- 10月第4次中東戦争。石油生産が制限され石油価格が4倍に急騰したためオイルショックが起こる。ガソリン、トイレットペーパー、洗剤が品薄となり、物価が狂乱状態となる
- 10月江崎玲於奈博士にノーベル物理学賞。エサキダイオード、超伝導の研究が受賞対象になった
- 11月熊本市の大洋デパート3階付近から出火、客や店員104人が焼死
金剛ビル設立、新分野に進出
書店とホテルの開設を目指す㈱金剛ビルが熊本市下通1丁目の旧金剛本社跡地を本拠地に設立されることになった。同社が運営する金剛ビルの起工式が昭和47年12月13日に、テナントとして入居する紀伊國屋書店の田辺茂一社長(当時)ホテル・サンルートの石川浩三会長(当時)および地元の関係者など多数が出席して、同地で行われた。
金剛ビルの敷地は700㎡、建築面積5000㎡、総工費は7億5000万円。地下1階は飲食関係の名店街、地上1階から3階までは熊本市に九州で初めて支店を開店する東京・新宿の紀伊國屋書店がテナントとして入居。4階はレストラン、5階は会議室、6〜10階は客室108室のホテル。ホテル部分はサンルート・チェーンのフランチャイズとして、ホテルサンルート熊本が経営に当たることになった。ビルは予定通り50年3月に完成した。
熊本市に九州では初めての支店を50年3月にオープンする。地方支店としては梅田(大阪)、札幌、岡山に次いで4番目だが、規模では梅田の次になりそうだ。熊本には10年前に一度来たことがあるが、町並みや景観がこれほど近代的になっているとは予想していなかった。熊本に進出するからには店自体に格調を持たせて、文化的なふん囲気を醸しだすよう工夫したい── 紀伊國屋書店社長 田辺茂一氏(熊本日日新聞)


「ホテルには気配りが必要だ」
当時、谷脇社長を支え、同ホテルの副社長として、計画の最前線に立っていたのは、ユミ子夫人だった。金剛ビルの場所は街の中心部にあり地の利がいい。当時は10階まで建てられるから、テナントで入りたいとの希望もあった。議論の末に、そのころ、熊本はまだホテルが少なかったし、紀伊國屋書店もビル賃貸契約の期間として20年を望んでおられたので、20年の長期なら、何とかやれそうだ、と思ってやることに決まったという。
しかし、ホテル全室に浴室をつけたかったのだが、当時のホテルはまだお風呂のない部屋が多かったこともあって、押し切られてしまうようなこともあった。当初の設計は、お客さんが宿泊しても宴会をする会場が取りにくい設計になっていたが、ユミ子夫人のアイデアで各階から少しずつせりだしてスペースを生み出すようにし、宴会ができるように急遽設計を変更したりして対応。ユミ子夫人は「ホテルには気配りが必要だ」と痛感したという。
従業員の教育については、「100%の満足を」をモットーに、繰り返し繰り返しお客様が何をしてほしいと思っておられるか、いつも気を付けておくように指導。いわゆる「ノーと言わないサービス」の提供は、いまも続いている。

早起き野球でブロック優勝
初夏になると恒例の熊本市民早起き野球大会が始まる。2カ月にわたるロングランのイベントで、市民や勤労者の大きな親睦の場になっている。この年、金剛の野球部は創部13年にして、同大会ブロック優勝の快挙をなし遂げた。
ブロックの制覇をかけた1戦は、7月4日京陵中グラウンドで藤井との間で戦われた。お互いに社の名誉をかけて激突かと思われたが、初回、コンゴーの“スーパー打線”が爆発して4点、さらに3回には渡辺社員(営業二課=当時)の旧国道3号線にまで達するランニングホーマーで追加点を叩き出した。守っては藤本主任(設計課=当時)の、速球を内外角に投げ分け、外角への変化球で勝負する見事なピッチングで7三振を奪い、5対0と完封に成功、攻守ともに圧勝のブロック優勝戦であった。
野球部の公的な試合の記録として社内誌にはっきり残っているのは、このブロック優勝の1戦だけであるが、社内報コンゴー創刊号(1965年1月=昭和40年)には次のような記述がある。「野球部が発足して5年目を迎えようとしている。これまで4年間の実績としては、優勝3回、準優勝1回、準決勝進出4回のほか、熊本市内の主な大会にはほとんど参加し、一応の実力を認められていた。だから試合のたびにお客さまや知り合いの方から、よく温かい励ましの言葉をかけていただいた。近い将来には工場裏に球場もできるように聞いている。やがて熊本でAクラスになる日もそう遠くないと思う」。ブロック優勝はその「遠くない日」が実現したわけである。


原本 P.72〜73