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1947年KONGO 創業/昭和 22 年熊本に一粒の種は蒔かれた
熊本に播かれた一粒のタネは、半世紀経った現在、見事に開花、“世界の金剛”の実を結んでいる。すべては、水前寺駅前の手荷物預かり所から始まった。
◆ 金剛の歩み
- 2月18日谷脇源資(現会長)の個人経営店として現在の金剛株式会社の母体となる金剛測量製図器械店を創業。旧国鉄水前寺駅前の手荷物預かり所を仮店舗に、記念すべき第1歩を踏み出した
- 7月新市街の第一マーケットに移転、自前の新店舗で営業開始
◆ 日本・世界の動き
- 4月教育基本法・学校教育法の公布で、現在の6・3・3制の義務教育へ
- 5月民主国家日本の門出といえる新憲法が施行された。主権在民と戦争放棄を鮮明にして、平和と自由を愛する民主国家の建設を全世界に向かって宣言
- 6月片山哲内閣が成立
- 8月水泳の古橋広之進が世界新をマーク。明るい話題に日本中がわいた
熊本に一粒の種は蒔かれた
昭和22年2月、自分の新天地を九州に求めた徳島県出身の青年が、国鉄水前寺駅に降り立った。金剛の創業者・谷脇源資。22歳の若さであった。熊本に播かれた一粒のタネは、半世紀経った現在、見事に開花、“世界の金剛”の実を結んでいる。
谷脇はセールスのため、21年1月から徳島・高知を、22年に入ると自転車で九州を一周した。当時の熊本市は九州の地理的中心地であるばかりか、行政、交通、教育等の中心でもあった。共同経営者であった叔父と袂を分かち、独立宣言した谷脇社長は、かつて回った九州の地で、特に県民性に“ぬくもり”を感じた熊本こそ、目標の地であると確信。22年2月17日に大阪を出発、翌18日熊本に乗り込んだ。
取りあえず駅前の手荷物預かり所に交渉して仮店舗に決め、この日を新規開店の創業日とした。こうして個人経営の金剛測量製図器械店が誕生した。奇しくも、この日は谷脇の誕生日であった。

使用人はゼロ。一人で二役も三役も
使用人はゼロ。経営者になった谷脇店主は文字通り一人で二役も三役も演じなければならぬ苦闘の毎日が続いた。自転車でのセールスは、商品を荷台に載せて県庁はじめ市役所、郵政・逓信・営林の各局、農地開発公団など諸官公庁回りが日課。誠実と努力で頑張った甲斐があって、県庁から第1号の注文が取れた。第1号の注文品はトランシット、レベルで、谷脇社長は「涙が出るほどうれしかった」と、喜びを語る。当時は測量・製図機器類は、建設関係にとって必需品であり、当初から店の方針は間違っていなかった。
涙が出るほどうれしかった── 第1号の注文(県庁/トランシット、レベル)を受けて 谷脇社長
その年の7月、第一マーケット(現在の熊本市新市街あたり)に自前の店舗を確保。営業を開始した。

原本 P.28
1948年KONGO 1年/昭和 23 年第一マーケット内に自前の店舗
地の利を得た店に、待望の仲間が入って来た。実弟・源次郎、そして松尾慶弥。20歳前の若者3人の頑張りが、後の店発展の礎となった。
◆ 金剛の歩み
- 1月新市街の第一マーケット内に新店舗を移したため、地の利を得て売り上げが増加、次のステップへの地歩を築く。新戦力として谷脇社長の実弟源次郎と松尾慶弥が入社。発展の礎となる
◆ 日本・世界の動き
- 1月帝銀(東京・椎名町支店)事件が発生。行員12人を青酸カリで毒殺
- 3月新警察制度が発足
- 4月ソ連がベルリンを封鎖
- 5月イスラエル建国
- 6月福井大地震で死者3769人
- 8月大韓民国が誕生。大統領に李承晩が就任
- 9月朝鮮民主主義人民共和国の独立宣言。首相は金日成
- 12月東条英機元首相らA級戦犯7人の死刑執行

第一マーケット内に自前の店舗
昭和22年7月に移った第一マーケット内の新店舗は、現在の新市街、クボタ洋品店の付近にあった。現在の銀杏通りに面しており、両隣はマルタ号と熊本農園だった。
何しろ復興の槌音とともに、必需品の測量・製図機器類は品物さえあれば飛ぶように売れたころである。谷脇の取り扱う種類も次第に多岐にわたっていき、在庫管理のためにも広いスペースが必要となっていた。また、営業や納品の上からも市の中心部への移転は懸案だった。
当時、木造2階建ての県庁は現在の熊本交通センター付近にあった。周辺にはビルらしい建物は一つもなく、辛島公園付近はヤミ市が建っていた。バラック造りの小さい店が軒を並べ、食料品や衣料品など生活に必要な物資は何でも入手できた。第一マーケット時代、共に軒を連ねたクボタ洋品店、マルタ号、熊本農園など現在でも盛業中の店は、当時、共に励まし合った仲間だった。

“誠実”で勝ち取った信用
金剛測量製図器械店の販売商品は度量衡・測量製図器械などが主なものだが、この第一マーケット時代に、“誠実”で勝ち取った信用は、同業他社にない財産となり、売り上げは日々、右肩上がりを呈して順調だった。
待望の仲間が入って来た
地の利を得た店にとって最大の課題は人手不足であった。人間の力には限界がある。まして一人ではなおさらだ。こうした状況のときに、待望の仲間が入って来た。谷脇社長の実弟・源次郎(現大分金剛商会社長)が第一号社員として。次いで3月、松尾慶弥(後の取締役)が新戦力に加わった。二人ともまだ20歳前の青年で、店主の谷脇を支えた。谷脇店長にとっても若い二人の存在は力強く、この第一マーケット時代の三人の頑張りは、後の店発展の礎となった。
原本 P.29
1949年KONGO 2年/昭和 24 年新店舗と結婚…人生最良の年
24歳の春、一家を興す年齢に。結婚、新店舗、そして事務機部門の新設。「栄通り」の名付け親になったのも、この年である。
◆ 金剛の歩み
- 4月1日谷脇社長、宗ユミ子さんと結婚
- 9月店舗を第一マーケットから栄通りに移転
- 事務機部門を正式に新設、計算機の販売を開始
- 谷脇社長、栄通りの名付け親に
◆ 日本・世界の動き
- 2月秋田県能代市で大火。死傷130人、2500戸焼失
- 3月米国ドッジ公使が来日し、経済安定政策( ドッジ・ライン)を明示
- 4月1ドル=360円の単一為替レートが決まる
- 7月下山国鉄総裁が行方不明、轢死体で発見される
- 10月中華人民共和国が成立
- 10月東ドイツ成立
- 11月湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を受賞

新店舗と結婚…人生最良の年
働きづめだった谷脇は、24歳の春を迎え一家を興す年齢になった。当時、玉屋通りの入り口にあった三国屋本店の宗ユミ子さんを紹介された谷脇は、一生の伴侶と決め4月1日、華燭の典を挙げた。ユミ子夫人は以後、夫の谷脇社長を支え内助の功を発揮。現在、金剛の取締役相談役として、また、㈱ホテルサンルート熊本の社長、㈱コンゴーハウス副社長として活躍中である。
9月には、栄通りに店舗を移転。間口10m、奥行き8mの広さになった新店舗には、連日多くの客が訪れて盛況を呈した。
事務機部門を新設。取扱商品が一気に拡大
組織上では、正式に事務機部門を新設して計算機の販売を開始。当時の取り扱い商品はトランシット、レベル、ポケットコンパス、箱尺、ポール、測量縄、巻尺、計算機、製図器、同用紙、流速計、風速計、試験機など。特に感光紙と秤は、ブームに乗った売れ筋だったし、石炭ストーブも主力商品だった。商品の仕入れ先も増えていき、理研光学㈱=現㈱リコー、東京光学機械㈱=現㈱トプコン、日本光学機械㈱=現㈱ニコン、三菱電機㈱、櫻井衡器㈱、石田衡器㈱、久保田鉄工㈱、㈱豊玉商店、センター興業㈱の各社に及んだ。
このころ、販売のエリアは熊本市内から市外、さらに宮崎、鹿児島の九州南部方面の県外へ拡がって行った。
「栄通り」の名付け親となる
今でこそ栄通りと言えば銀杏通りとともに夜の繁華街として有名だが、当時は名前さえなかった。そこで谷脇は、商売繁盛にふさわしい名称にしてはと、「栄通り」と提案。名付け親となった。

原本 P.30
1950年KONGO 3年/昭和 25 年朝鮮戦争の“特需”に沸く
「いい品物を、早く、安く」。ダルマストーブの大商いと、金庫との出会い。後の金剛を決定づける取引が、この年に始まった。
◆ 金剛の歩み
- 1月ダルマストーブで大商い
- 9月金庫の取り扱いとして、広島の旭金庫と取り引きを始め、同社製金庫の販売に乗り出す
◆ 日本・世界の動き
- 1月年齢が満年齢になる
- 1月1000円札を発行
- 2月米国でマッカーシー旋風(赤狩り)が始まる
- 3月自由党が結成され、総裁に吉田茂が就任
- 6月朝鮮戦争が勃発
- 7月マッカーサー元帥、警察予備隊の創設を指令
- 8月伊藤整訳「チャタレイ夫人の恋人」にワイセツ文書の摘発
- 11月11月3日が文化の日に。「君が代」復活
- 11月政府が旧軍人3250人の追放解除
朝鮮戦争の“特需”に沸く
朝鮮戦争の勃発で、わが国の経済は朝鮮特需によって“金へん景気”に沸いた。金属機械工業界も活況を呈し、九州の中小企業にも波及。販売力が高まり、金剛も日ごとに力を増して行った。
この年、広島の旭金庫と取り引きを開始し、同社製の金庫の販売を始めた。このときの縁で8年後、倒産した同社を買収。金剛が金庫やスチール家具の生産を開始することになる。たまたま取り扱った金庫の販売が、将来、会社の発展に大きく寄与することを、だれが予想しただろうか。
石炭ストーブで大商い
当時は生活用物資は何でも売れた時代だった。石炭ストーブの大商いも、逓信局で石炭ストーブを大量に購入するという、たまたま入手した情報からだった。当時は、まだ木炭で暖房していたため、ときには一酸化炭素が発生、気分が悪くなるなどの被害も生じ、石炭ストーブへ切り換えの時期だったことも味方した。調べてみると、その他、鉄道管理局や農政局、県庁等も購入予定であり、それらを合わせると全部で1万個以上の大商いである。当時、金剛はセンターストーブという名で、大阪と川口(埼玉県)の工場で造られていた、ダルマのように丸い、通称“ダルマストーブ”を取り扱っていた。熱心な売り込みの結果、金剛は石炭ストーブの大量受注に成功、大きな利益を上げることができた。
この仕事は儲けも大きかったけれど、それより、品物をまとめて、必要とする所に奉仕できたことがうれしかった── 谷脇社長

強味は、商品の仕入れにあった
金剛の強味は、商品の仕入れにあった。当時、熊本の同業者は、博多の問屋に注文、その博多の問屋が大阪の問屋に注文する仕組みだった。金剛の場合は電話1本で東京・名古屋・大阪から直接仕入れた。また小型の商品は汽車で持ち帰れば早く着く。他社は全部荷造りして送るので費用もかかる。谷脇は自ら大風呂敷に商品を詰めるだけ詰め込んで、かつぎ屋のようにして帰路につくこともあった。
こんな努力が実を結び、当時は協定価格というものがあったけれど、金剛は協定価格で納品しても利益があった。「いい品物を、早く、安く」という方針で信用を築くことに成功したのである。
原本 P.31
1951年KONGO 4年/昭和 26 年創業4年で株式会社に
資本金100万円、金剛株式会社設立。そして「将来必ず中心街を通る目抜き通りになる」と確信した光琳寺町への本社移転。読みは、見事に当たった。
◆ 金剛の歩み
- 1月16日法人に組織変更、「金剛株式会社」を設立。資本金100万円、代表取締役社長に谷脇源資が就任
- 2月宮崎営業所を開設(宮崎市橘通2丁目)。南九州の拠点に、初代所長に松尾慶弥就任
- 4月本社を銀座通りに移転(現在のホテルサンルート熊本の所在地)
◆ 日本・世界の動き
- 1月NHKが第1回紅白歌合戦を放送。高い視聴率を誇り、その後は大晦日の人気番組として定着
- 4月マッカーサー元帥が解任。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」の名文句を残して離日
- 9月対日平和条約に49カ国が調印。日米安全保障条約が成る
創業4年で株式会社に
谷脇社長を先頭に全社員、血のにじむような努力のかいあって、個人商店と別れを告げるときが到来した。1月16日、資本金100万円の金剛株式会社が設立された。創業から4年目の快挙である。
谷脇社長は、待望の株式会社設立を機に、県外に対する営業戦略として、2月、初めての出先機関として宮崎営業所を宮崎市橘通に開設、初代所長に松尾慶弥が就任(本社と兼務)。南九州における販売拠点となった。

「将来必ず目抜き通りになる」
谷脇社長は、商売熱心ばかりでなく常に先を読む鋭い感覚を持っていた。当時、熊本市が推進していた都市計画事業で、市内の光琳寺町一帯が区画整理によって道路が建設されることを知り「将来必ず中心街を通る目抜き通りになる」と確信。早速、本社用地を光琳寺町に確保した。当時市公会堂前からのメーンストリートにあたり、この大通りに面した場所は、地の利が良く、企業にとって最適の地で、会社発展の重要ポイントとなった。
用地を確保すると、4月には早速本社を移転した。現在の銀座通り、ホテルサンルート熊本が建っている所で、正式には光琳寺町18番地、来熊した明治の文豪・夏目漱石の最初の旧居跡である。


原本 P.32
1952年KONGO 5年/昭和 27 年大分営業所を開設
入れ物が完成すれば、それにふさわしい中味——社員が必要である。血気盛んな新人が相次ぎ入社し、社内は活気に溢れていた。
◆ 金剛の歩み
- 3月大分市若松通りに大分営業所を開設した。県外番目の営業所。初代所長に谷脇源次郎就任。新入社員が相次ぎ、新戦力に
- 新入社員3人が相次ぎ入社、営業力に厚みが加わる
◆ 日本・世界の動き
- 2月英国女王エリザベス2世即位
- 3月十勝沖地震M8.2。死者・行方不明者33人
- 4月日航機「もく星号」が三原山に墜落。乗客乗員37人全員が死亡
- 4月NHKの連続放送劇「君の名は」が放送開始され、大ヒット。
- 5月皇居前広場で“血のメーデー”事件
- 7月ヘルシンキで開催の五輪大会に、日本が戦後初めて参加
- 8月日本が国際通貨基金(IMF)・世界銀行に加盟
- 10月警察予備隊が保安隊に改組
大分営業所を開設
日航機「もく星号」の墜落や、血のメーデー(死者二人、負傷者約1000人)など国内は騒然とした年だったが、金剛にとっては相次いで新入社員を迎え、県外へ進出するなど積極的なビジネスを展開した年となった。
かねて活動を行ってきた大分地区の営業もようやく軌道に乗り、出先機関の必要が起こった。まず、3月、大分市唐人町に仮営業所を設け、7月に若松通りに正式な営業所を開設した。初代所長には、社長の実弟・谷脇源次郎が、本社兼務の形で就任した。大分に進出した金剛は、同地方へ新風を吹き込み、強固な地盤を築き上げていった。
入れ物が完成すれば、次は中味=社員
銀座通りに開設した金剛本社屋は、当時としては近代的な店舗としての美観を備えたものだった。入れ物が完成すれば、それにふさわしい中味—社員が必要である。そして喜多秀雄(後の金剛建機社長)、逢坂久雄(後のOMサービス社長)、酒井明雄(故人)の三人が相次ぎ入社、三人とも血気盛んな青年で、社内の空気は、元気な新人を迎えて活気に溢れていた。
一方、谷脇社長一家にも新しい家族が増えていた。すでに長女由志子さん(昭和25年)、次女美代子さん(昭和27年)の二女をもうけ、家庭的にも恵まれ、後顧の憂いなく事業に没頭できたのである。正月の仕事始めのとき会社前で撮った記念写真には、長女由志子さんを膝の上に乗せた谷脇社長夫妻を中心に14人の社員に囲まれた光景が見られ、当時の金剛の結束力がうかがえる。

「企業は人である」
よく「企業は人である」と言われるが、頑張る社員の姿を伝えたエピソードがある。会社から県庁(花畑町)に納入する大型ストーブを、単車や自転車で運び、一人で2階へ担ぎ上げるのは大変な仕事だった。しかし、社員は文句も言わずに黙々と、つらい仕事をやり遂げたという。
原本 P.33
1953年KONGO 6年/昭和 28 年6・26水害で大きな被害
商品の9割が流失。数千万円の打撃。それでも金剛は支払猶予を申請しなかった——「災い転じて福となす」を実行した年。
◆ 金剛の歩み
- 4月鷲尾顕之助、大村憲一、灰塚初次ら相次ぎ入社
- 5月土木建設機械を扱う機械課を新設。金剛建機の母体となる
- 6月26日熊本市の白川が氾濫。金剛本社も店舗、倉庫ともに大きな被害を被る
◆ 日本・世界の動き
- 2月NHKがテレビの本放送を開始
- 4月吉田茂がバカヤロー発言
- 3月ソ連・スターリン首相が死去
- 3月中国からの第一次引き上げ船興安丸が京都舞鶴港に入港
- 5月英国隊がエベレスト初登頂に成功
- 7月韓国と北朝鮮が休戦協定に調印して朝鮮戦争が終結
- 10月熊本初の民間放送「ラジオ熊本」開局
- 12月奄美群島が日本に復帰
6・26水害で大きな被害
熊本市は6月26日夕刻、市内を流れる白川が連日の梅雨前線の居座りで氾濫、中心部は濁流に襲われ大被害を被った。金剛本社も店舗、倉庫の商品は9割が流失したり、泥水に浸って売り物にならず、数千万円に上る致命的な打撃を受けた。
翌日からは早速、谷脇社長を先頭に、店内や倉庫内に流入して堆積した真っ黒なヨナ(火山灰)の排土作業に取り組んだ。商売どころでなく、連日ヨナとの戦いだった。入社早々の鷹尾部長が「排土作業のために入社したようなものだ」と漏らしたのも当時の語り草。全員、泥人形のようになって復旧作業に励んだ。

「災い転じて福となす」
このような大災害に見舞われても谷脇社長は「災い転じて福となす」を実行した。政府は商品等の全ての支払いを約2カ月間猶予する特別措置を施行したが、困っている時はお互いさま—と、幸い現金があったので、金剛は敢えてメーカーに対する繰り延べをしなかった。
金剛の被害はひどいものだった。ほかの商店がほとんど支払猶予を申し入れてきたけれど、金剛さんは猶予を申請せず、しかも被害を受けた商品の返品は一つもなく、代金もきちんと支払われた。これには私も谷脇社長に対して深い敬意の念を抱いた── 取引先の豊玉商店・塚越福岡支店長
と、谷脇社長を賞賛。このことが、後々までの信用につながったのである。
機械課のスタートが、復興の追い風に
復興のため追い風となったのが、水害1カ月前の機械課のスタート。熊本市内の復旧作業が本格化するにつれ、ベルトコンベアー、ミキサー、削岩機、ロードローラー、コンプレッサーなどの建設機械類の販売が順調に伸び、新規事業は軌道に乗った。社員も10人以上になっており、機械課はこのあと金剛建機へと成長、それに続くコンゴーハウス、金剛ビル等、不動産グループの源となる。

原本 P.34
1954年KONGO 7年/昭和 29 年水害復興ブームで商機到来
水害と町村合併が、復興ブームを起こした。度量衡から始まった店は、総合商社としての体制を固めていく。まさに“商機到来”である。
◆ 金剛の歩み
- 1月水害復旧が急ピッチで進み、金剛が手掛けた建設機械類の販売が本格化
- 4月1日自治体の行政指導による市町村合併が進み、新行政区での事務量増加に伴う金剛躍進の転機を迎える
- 建設機械類の販売が伸び、サービス部門を強化拡充
◆ 日本・世界の動き
- 1月50銭以下の小銭が廃止
- 3月ビキニ環礁で行われた米国の水爆実験の降灰で、日本のマグロ漁船第五福竜丸が放射能に被爆。久保山愛吉無線長が死亡。その後獲ったマグロ約18万7500kgが汚染魚として土中へ捨てられる騒ぎに
- 6月周恩来中国首相とネール・インド首相が平和5原則を発表
- 7月防衛庁・自衛隊が発足
- 9月青函連絡船・洞爺丸が台風で沈没。多数の犠牲者を出す

水害復興ブームで商機到来
大水害に打ちのめされた熊本市は、日を追って立ち直っていった。水害によって農業生産面では低下を見たが、逆に建設業や林業などは活発な動きを見せ、復旧ブームを呈し、金剛も建設機械類の販売へ本格的に動きだした。
金剛にとって、さらに追い風となったのが町村合併促進法の施行だった。県内でも4月1日を期して玉名、山鹿、本渡、牛深の四市が誕生。合併新市町の誕生に伴う事務量の増大に対する合理化、近代化等いわゆる事務改善が叫ばれた。金剛にとっては、まさに“商機到来”である。
総合商社としての体制を固める
水害は、熊本市の様相を一変させたが、復興とともに街並みは、きれいになっていった。水害と町村合併は、復興ブームを起こし、金剛が商社として一人前の企業と認められるきっかけを作った。
当初、度量衡・測量製図器械から始まった金剛だったが、取り扱い商品も金庫、スチール家具、ストーブ、電気製品、事務機、試験機、コトブキのイスなど新たな各種商品が加わって総合商社としての体制を固めていった。特に建設機械類の販売増加により、販売額は急上昇したが、その半面、修理関係の仕事も煩雑になり、高度化されていった。アフターサービスの強化が重視されるようになり、それに対応するサービス部門も必然的に強化拡充されていった。
役所等から測量機器の大量注文があったので、結局、1年くらいで損害分を取り戻した── 谷脇社長

原本 P.35
1955年KONGO 8年/昭和 30 年新装記念のビジネスショー
社屋の広さは2倍に。舶来・国産の事務用器実演コーナー、洋式ディスプレー——3日間とも大盛況となった、第1回ビジネスショーの記録。
◆ 金剛の歩み
- 10月26日水害復旧に全力。営業活動も軌道に乗る。改装成った本社でビジネスショーが開かれ話題に
- 社屋の右隣と裏側の土地を入手して建物を拡張、社屋の広さは2倍に
◆ 日本・世界の動き
- 2月第27回衆議院選挙でNHKがテレビで初の開票速報を導入
- 3月第二次鳩山一郎内閣が成立
- 4月アジア・アフリカ会議で平和10原則を採択
- 5月国鉄宇高連絡船の紫雲丸が沈没。死者168人
- 6月初の1円アルミ貨発行
- 8月第1回原水爆禁止世界大会が広島で開かれる
- 8月長崎平和記念像の除幕式
- 10月左右両派社会党が統一
- 11月日米原子力協定調印
- 11月自由、民主両党合同、自由民主党結成。保守合同成る

新装記念のビジネスショー
水害復旧を機に、金剛は本社屋の増築に踏み切った。銀座通りの社屋の右隣と裏側の土地を入手し、まず建物を拡張、社屋の広さは2倍になった。これを記念して「新装記念ビジネスショー」が、10月26日〜28日の3日間にわたって開かれた。泥の町から元の姿に復旧した道路沿いの本社前には、メーカーから贈られた色とりどりの、祝いの花輪が20本以上並んで、ショーに花を添えた。
洋式ディスプレーが話題に
この展示ショーは、ディスプレーが洋式であか抜けしていると評判になり、3日間とも大盛況だった。「舶来・国産の事務用器実演コーナー」は特に人気があった。測量機械のYレベルや、ドイツ製のゲステットナー(輪転機)、フリーデン(電動計算機)など外国製品も多数展示された。国内メーカーでは丸善の電算機やリコーの複写機、ソニーのテープレコーダーなど当時としては花形の事務機器が注目を浴びた。この華々しい第1回ビジネスショーの成功で以後、機を見ては展示会を開くようになり、営業活動にとってプラスとなった。

原本 P.36
1956年KONGO 9年/昭和 31 年“幼少期”終わる
創業から10年目。社員12人、平均年齢20代という若い集団は、次の一手を打っていた。それは商社からメーカーへの転身である。
◆ 金剛の歩み
- 金剛の第1期(幼少期)が終わり、第2期(成長期)へ
◆ 日本・世界の動き
- 1月原子力委員会が発足
- 1月日本道路公団発足
- 5月日本登山隊がヒマラヤのマナスル初登頂に成功
- 7月経済白書発表「もはや戦後ではない」が流行語に
- 8月秋田県大館市で大火。1755戸焼失
- 9月富山県魚津市で大火。1700戸焼失
- 10月日ソ共同宣言に調印。国交回復へ
- 10月スエズ動乱始まる
- 11月メルボルン・オリンピック開催
- 12月日本の国連加盟が全会一致で承認される

“幼少期”終わる
創業から10年目を迎えた昭和31年—金剛にとっては、一つの節目をクリアした年である。前年までの9年間を第1期とすれば、「幼少期」にあたる。個人商店としてゼロから出発した金剛が、脆弱な体質にもかかわらず何とか「幼少期」を乗り越えたのは、谷脇社長の“ガンバリズム”と、ユミ子夫人の内助の功、社長夫妻を支えた少数精鋭の社員の力である。
平均年齢20代、次の一手はメーカーへの転身
第2期を迎えたこの年、社員は12人で、谷脇社長以下、平均年齢は20代という若い集団だった。28年の大水害で大きな被害を受けたが、既に第2期を目指して次の手は打たれていた。それは商社からメーカーへの転身である。
銀座通りの本社敷地内の工場は、こぢんまりした倉庫の中で、鉄板の裁断機もない状態。従って騒音防止のため壁に穴を開けて“オガ屑”を詰めて緩衝地帯をつくるなど腐心したという。文字通り試行錯誤をしながら、金剛のメーカー転身は町工場の形態からスタートしたわけで、まだ将来像は見えていなかった。
原本 P.37