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「伝える意志」と「伝わる表現」
〜人から人へ伝える意味〜

リアス・アーク美術館


interview

話し手の写真
話し手:山内 宏泰さん リアス・アーク美術館 学芸係長・学芸員    ※所属・役職は取材当時のものです。
 
 

 平成25年4月に常設展示「東日本大震災の記録と津波の災害史」を新設、公開。震災直後から2年間にわたり学芸員らが記録・収集した資料を展示している。展示室内には、被災現場の記録写真203点、収集した被災物155点、三陸沿岸部の過去の津波に関する歴史資料137点が並ぶ。
 


地域文化としての津波を「知らなかった」

 
 リアス・アーク美術館は、元々歴史民俗系の常設展示もしている総合博物館的な美術館です。開館した当時から、地域史や歴史民俗系の資料を扱ってきました。 実はそのようなこともあって、当館では震災以前から地域の文化史、災害史として重要な要素である津波を調査・研究してきた経緯があります。気仙沼を含む三陸沿岸部は、近世以降およそ40年周期で津波が襲来する地域です。そこで平成18年に、甚大な被害をもたらした明治29年の三陸大津波※1 の記録『臨時増刊号 風俗画報』※2 を紹介する特別企画展を行いました。※3 その企画展を開催した平成18年というのは、近々30年の内に宮城県を震源としたマグニチュード8を超える連動型の大地震が発生する可能性が高く、その際、三陸沿岸に10mクラスの津波が襲来する確率が99%※4 と言われている時期でした。そういう中でこの地域が経験した「人類史上最悪」の津波を紹介する企画展なのだから、開館史上、ぶっちぎりの入場者数を記録するのではと期待をしていました。ところが、2か月間で入場者は約1200人…信じられないくらい地元住民からの反応がありませんでした。
 
※1 明治29年6月15日の明治三陸地震により発生。現在の研究で死者数は約22,000人。 記録に残る津波被害では史上最大規模。
※2 明治22年に創刊された大衆向け雑誌。 津波発生直後から取材を行い、臨時増刊が3冊出版された。
※3 リアス・アーク美術館特別展「描かれた惨状 風俗画報に見る三陸大海嘯の実態」 (平成18年9月9日~10月20日開催)。
※4 文部科学省研究開発局 地震・防災研究課 地震調査研究推進本部が平成15年発表 (平成17年に発表内容を一部修正)。  
 
 

人々が津波にさらわれる絵
『臨時増刊号 風俗画報』第百十九号 口絵「海嘯の惨害家屋を破壊し人畜を流亡するの図」(明治29年7月25日発行) 

 
 
 平均して40年に一回は大津波が来ている土地ということは、その大津波が地域文化に何らかの影響を与えていないわけがないのです。つまり、津波が気仙沼の文化形成の一端であることは間違いないはずなのに、それが全く意識されず、災害や津波の記憶、経験が消えていくってことは重大なものを失う恐れがあるということです。
 残念なことに、東日本大震災の後、地元の人も含む多くの人が口を揃えて言ったのは「こんなことが起こるなんて思ってもいなかった」「考えたこともなかった」「知らなかった」ということでした。そして、マスコミも「未曾有の大災害」「想定外」だと報道していました。でも連動型になる可能性が高いことも、10mクラスの津波が来るということも当館で企画展を開催した平成18年の時点で言われていた通りだし、「知っていた」人にとっては、未曾有、想定外の出来事ではないのです。確かに、東日本大震災における津波は「過去最大級」ではありますが、明治29年の津波規模とそんなに変わらないというのも事実なのです。また、東日本大震災が起こる前に気仙沼市が出していたハザードマップでは、このくらいの津波は想定されていました。
 だから結局、今回の震災で甚大な被害になった原因の一つは、この土地の人間であれば知らなければいけなかったことを知らずに生きてきたということだと思います。津波が地域の文化形成の一端として、地元住民に伝えられてきていれば、「知っていれば」、ここまでの犠牲は出なかったはずです。 そのためにも「津波のことを知っている」という状態を途切れさせないことが必要です。毎年日本中から沢山の学生が修学旅行などで当館の常設展を訪れます。でも悲しいことに、地元の小中高校での利用というのは、常設展示がオープンして4年経つ中で、一校一回だけでした。震災から7年経つと震災当時に生まれていないか、震災の記憶が無い子が小学一年生になって入学してくる時期です。将来的には、気仙沼で暮らす子どもたちの通過儀礼のように「リアス・アーク美術館の常設展示を見に行って、あの時何が起きたのか見よう」「なんでそんなことになってしまったのか知ろう」そして、「今、目の前にある町が果たして本当に正しいのか考えよう」「もし間違いがあるのだったら、今からでも遅くないから、1000年かかってでも正しい町をつくっていこう」と、そういう風にやってもらえたらいいと思っています。 災害の記録を残し伝えていく展示というのは、これから災害に遭う人の命を守るためのものです。採算を考えて企画するものではありません。だから、税金を使って公立施設でやるべきです。公の施設として、教育施設として、公的な組織が管理する施設がその役割を担っていると思っています。
 
 
壁に並ぶ被災写真
常設展示「東日本大震災の記録と津波の災害史」

 
被災物の展示
常設展示「東日本大震災の記録と津波の災害史」

 
被災写真とその前に置かれた被災物
写真の手前にあるのは津波で変形した軽トラック 

 
 
地元住民の言葉を取り戻す

 

 三陸地域が津波常襲地域であることを震災以前から訴えてきた身としては、ここまでの大災害になった原因は単に「過去最大の津波が来たから」というだけではないと、職務上の人生をかけて世の中にきちんと知らしめようと決意しました。それはただ単に、被災していない方に被害記録を見せて「どうだと思います?大変だったでしょ」と主張するだけではありません。「なぜこんなことが起きてしまったのか?」「その原因がどこにあったのか?」そして何より、「これからどうしていこうか?」「今やっていこうとしているその方針で本当にいいのか?」…と、被災した地域の、被災者である我々こそがきちんと考えるための展示でなければならなかったのです。 被災した原因を正しく知り、その上で考えなければ、間違った復旧・復興を進めることになりかねないからです。
 ですから、そのための資料とか場を一刻も早く現地に、ここ気仙沼に作らなければならないと考えました。「そうしないと未来を守れない」という我々の「勝手な」使命感です。
 そこで震災直後の2年間は、とにかく被災現場に行って記録・調査をしました。後に、気仙沼市からの公式な命令になりましたが、当初は公的な指示もないままでの、文字通り「命がけ」の記録調査活動でした。私自身、いち被災者として、 それをやっていないと精神を保てな かったという事情もありましたが…。外部の人間ではなく、土地のことをちゃんと知っていて、被災して変わり果てた場所に立っても、そこがどこか分かる人間が取った記録でないとダメなんです。我々以上の適任者はいないという使命感がありました。
 そもそも当時は、美術館なんて再開するはずがないと思っていましたが、とにかく記録資料は残そうという想いでした。「美術館」ではなくて、「今回の震災を正しく伝える施設」としてならば、地域の人たちも必要だと言ってくれるんじゃないか?と思っていたわけです。
 そして、2年間にわたって収集した資料を、美術館の一室を使って常設展示化したのが「東日本大震災の記録と津波の災害史」です。本心を言えば、オープンの前日は「これは俺たち地元住民の言葉とは違う」と一斉に批判されるのではないか?という恐怖で眠れませんでした。でもふたを開けてみたら、地元の人からの批判は一切ありませんでした。
 当時、気仙沼の住民たちはあまりの出来事に、自分の気持ちをどうやって表現したらいいのかが分からず、言葉を失っている状態でした。しかし、何も言うことが無いわけじゃないのです。「言えない」だけで。そうしている内に、容赦なくマスコミによる取材がどんどん行われ、彼らに都合のいいように話を組み立てられていきました。自分たちの気持ちや考えを伝える言葉がなかった気仙沼の人々は、外部からやって来た人間が発する言葉に触れるうちに、その言葉を用い始めるようになってしまいました。
 例えば「ガレキ」。皆さん「こいつはガレキでねえんだ、俺の家なんだ」って言いながら、他の言葉を知らないので平気で「ガレキ」って言葉を使い始める。日本語にそれを表す言葉がなかったのです。だから私は新たに「被災物」という言葉を作り、常設展示に組み込みました。
 言葉を失っていた地元の方から、「展示を見て救われた」っていうご意見をたくさんいただきました。「これからは俺もこう言う」「私もこう言う」って。その後、地元の被災した方が展示室の中で外部からのお客さんを連れて歩きながら、さも自分の言葉であるかのように展示の説明書きを滔々と説明しながらオリジナルツアーを組んで常設展示を見ていく、という光景が見られるようになりました。
 当館でこの常設展示を作ったことによって、一斉に地元の方がモノを語れるようになったと感じています。オープンして4年以上経つ中で、気仙沼の皆さんが震災を表現するとき、今は完全にこの常設展示がスタンダードになっているとも感じています。その責任の重要さは勿論自覚しているし、この常設展示があるのと無いのでは相当違うんじゃないかと思っています。
 
 

キーワードパネルの内容
常設展示内「キーワードパネル」より抜粋(※クリックして拡大)

 
 
伝える意志と伝わる表現
 
   常設展示「東日本大震災の記録と津波の災害史」は、当時の現場写真、被災物、歴史資料、そして文字によって構成されています。
 写真には「撮影者が何を想い、何を伝えるために、なぜそこでシャッターを切ったのか?」という理由を添えています。例えば同じA4サイズに表現された情報でも、びっしり書いた文章と写真とでは、圧倒的に後者の方がデータ量は大きいですよね。でも特殊な訓練を受けた人でない限り、人が写真や映像から引き出せる情報量はごく限られています。
 なんだか分からないぐちゃぐちゃの爆発したような光景を伝えるとき、どっちがより多くの情報を伝えられるかというと、文章と写真では、圧倒的に文字の方が伝わりやすいんです。つまり、津波で被災した現場の写真を見ても、ほとんどの人は「ぐちゃぐちゃ」としか語れません。でもその脇に文字による説明があれば、画像が提示する莫大な情報量を読み解くことができます。人間は、字からイメージを読み解くことができるからです。
 ですから、被災物には収集した場所と日時だけでなく、我々がかなり主観を込めて書いた「物語」を添えています。「物語」は、記録活動中に出会った方々から聞いた話をそのまま書き起こしているわけではありません。その、いろんな話を私が混ぜて作ったいわば「フィクション」です。これは博物館業界的には一種のタブーを犯していると言ってもいいかもしれません。しかし、最大の目的である「伝えること」を達成するために、博物館業界の常識や前例よりも、自分たちが 「正しいのだ」「必要だ」「やるべきだ」と思うことを優先しました。
 もしかすると写真が無くても、文字キャプションだけで成立するかもしれません。人間の想像力を信じているから、写真には全てキャプションを、被災物には物語を付けました。
 
 
テーブルに並べられた被災物とその物語
常設展示「東日本大震災の記録と津波の災害史」被災物と添えられた物語

 
被災物とその物語の展示
常設展示「東日本大震災の記録と津波の災害史」被災物と添えられた物語

 
 
 アーカイブは、どんなに収集し蓄積しても活用できないと意味がないと思っています。我々が作りたいのはタイムカプセルじゃないですから。そのアーカイブした資料を使っていくときに「想像する回路」というのを稼働させることができなければ意味がありません。そして、その回路を稼働させるのに一番有益な方法は「他人事ではなくて自分事にする」「当事者感覚を持って物事にあたる」ということではないでしょうか?被災物につけた物語は、「どこの誰だか一切分からない架空の人物による語り」という構図を取っています。それは、人間というのは無意識の内に、物語の内容を自分の知っている環境の中にスッと取り込み、架空の人物に自分が知っている誰かを当てはめざるを得ない生き物だからです。例えば「気仙沼市在住の〇〇さん何歳が●●と言っていた」と表現すると、とたんに他人事になってしまう印象を受けると思います。
 語り部として自分の経験を語っている方々はいらっしゃいますが、当館では、主観と客観と両方ないとダメだと考えています。だから語り部の人たちは自分の主観的な想いや経験を語ることをもちろん大事にしながらも、客観的に語れる知識や技術も必要です。同様に博物館の展示も、客観的事実をちゃんと正しく伝えるというのはもちろん大事だけれども、主観的な感情が伴わなければ人には伝わりません 。
 全ての写真に撮影者の感覚や思考を添えること、そして被災物につけたストーリーを匿名化し物語風にする「仕掛け」は、本気で伝えようとしている当館の意志の表れなのです。私たちリアス・アーク美術館にとってこの常設展示「東日本大震災の記録と津波の災害史」に込めているのは、「伝わればいいな」という希望や願望ではなく、「伝えなければならない」というミッションであり意志なのです。従来のように、ただただ客観的に記録を残し、情報を並べておくだけではダメなんです。
 「伝える意志」と「伝わる表現」。サーバーではなくて、人から人に伝える意味というのは、そこでしょう。 
 
 

被災現場写真

 

津波が引いた後の写真
©リアス・アーク美術館/撮影 山内宏泰

2011年3月13日、気仙沼市魚市場前の状況。目の前のホテル、 病院ビルの屋上からヘリコプターによる救助活動が行われていた。頭上25mほどから発せられるプロペラの風切音はかなりの騒音だ。その騒音の中、耳に届いたかすかな声。振り向いてみると建物の3階窓から男性が白い布を振り、「たすけて!」と叫んでいた。そこには4名の生存者がいた。自衛隊と共に救助に当たった。
 
津波が引いた後の写真
©リアス・アーク美術館/撮影 塚本卓

2011年3月15日、気仙沼市松崎尾崎、片浜の状況。面瀬川をせき止めるダムのような形でグニャグニャと絡み合うH鋼や木片、家具など。この塊に目を凝らすと、中心の深い部分に巻き込まれた 銀色の自動車が確認できる。こういうものを見つけてしまうと、我われは心の中で二つの祈りをささげる。まず、「どうか無人でありますように」と、そしてもう一つ、「一刻も早くそこから出られますように」と。 
 
リアス・アーク美術館 常設展示「東日本大震災の記録と津波の災害史」より抜粋
 
 

被災物と物語

 

展示室にある、自転車と洗濯機の被災物

自転車 2011.12.1 気仙沼市梶ヶ浦 
 おじいちゃんに買ってもらった自転車。マウンテンバイク。4年生になった時に買ってもらった。それまではね、お兄ちゃんのおさがりだったがら、初めで新品で買ってもらったやづだったよ。うんとねぇ…12段変速だった。坂道も登れだよ。 
 おじいちゃんねぇ…船 海に出すって言って、地震の後、港に行った…
ん…帰ってきてない。まだ分かんない。お父さんが探しに行ってる。
 また自転車に乗りたい。

 
洗濯機 2011.11.22 気仙沼市本吉町三島 
 我が家はバラバラになって、流されて田んぼにまき散らされてしまったんです…秋口に、ぬかるみが、ようやく歩けるようになって、それで、気になってた洗濯機を見に行ってみたんです。やっぱりうちのでした…洗濯槽の中に泥が積もってました。
 洗濯機って、脱衣所とか、洗面所にあるでしょ。あそこって身もそうだけど、心も清めるっていうか…お風呂とかね。安心できる場所。いろいろきれいにするそういう場所と洗濯機ってセットなんだよね。
 なのに泥が入ってて…見なきゃよかったなぁって…悲しくなった。

 
リアス・アーク美術館 常設展示「東日本大震災の記録と津波の災害史」より抜粋
 
 
(取材日:2017年7月22日)
取材・執筆:宮脇 薫子 金剛株式会社 社長室
※取材当時 

リアス・アーク美術館
所在地:宮城県気仙沼市赤岩牧沢138-5
T E L :0226-24-1611開館時間:9:30〜17:00(最終入館16:30)
休館日:月・火・祝日の翌日(土日を除く)
U R L:http://rias-ark.sakura.ne.jp/2/
 
 

 

PASSION38表紙
この記事は「PASSION vol.39」に収録されています
 
 
 

 

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