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「互尊独尊」の精神を宿す
長岡の「ふみくら」

長岡市立中央図書館文書資料室


interview

話し手の写真
話し手:田中 洋史さん 長岡市立中央図書館文書資料室 室長   ※所属・役職は取材当時のものです。
 
 
長岡私立図書館文書資料室外観
 

 
 戊辰戦争と長岡空襲という2度にわたる戦禍により焼け野原になった新潟県長岡市。「質実剛健」の気質で度重なる苦難を乗り越え、県内2番目の人口を擁する都市にまで発展を遂げました。しかし、戦禍によって灰儘に帰してしまった文化的財産や歴史的資料は2度と戻ることはありませんでした・・・。そして平成16年10月23日、長岡は3度目の郷土史喪失の危機に見舞われます。新潟県北魚沼郡川口町(現・長岡市)を震源として発生した中越大震災※1です。「3度目の悲劇を繰り返さないために」。市民と行政が一体となって取り組んできた活動について長岡市立中央図書館文書資料室の田中室長にお話を個いました。
 
  ※1 平成16年10月23日 新潟県中越地方を震源に発生した「新潟県中越地震」。 本インタビュー記事の中では、新潟県で用いられている「中越大震災」という呼称を用いる。
 
 
ー文書資料室の役割について教えてください。
 
 文書資料室の前身は市史編さん室です。平成8年に『長岡市史』が市史編さん室によって刊行されたのち、その資料を引き継ぐかたちで平成10年4月に開設されました。文書資料室では長岡市域の古文書や市史に関係する図書・歴史公文書などを収集・保存・公開しています。中越大震災以降は、地震で被災した家屋・土蔵から救出した古文書などの「被災歴史資料」と、震災の記録を留めた文書資料や写真、図書といった「災害復興関連資料」の収集・整理・公開を進めてきました。さらに近年は、行政の動きを示す「歴史公文書」を加えた合計3つの資料群を「長岡市災害復興文庫」として扱い、全国の関係機関との連携、展示会での発信などを通じて、災害の経験・記憶を未来へ引き継いでいく活動を行っています。
 
 

長岡市災害復興文庫の構成図
長岡市災害復興文庫を構成する3つの資料群

 
 
ー文書資料室が置かれている互尊文庫自体、歴史を感じさせるたたずまいですね。互尊文庫の沿革について教えていただけますか。
 
 この互尊文庫は、現在は長岡市立中央図書館の地域館の一つですが、今の中央図書館ができる以前は、ここが長岡市の中央図書館でした。互尊文庫が開館したのはおおよそ100年前の大正7年。「互尊翁」として知られた野本恭八郎の寄付により建てられた、長岡で初めての公共図書館でした。商人として身を成した恭八郎でしたが、郷土のため、社会のため、ひいては世界平和のためにその生を全うすべく「互尊思想」という独自の思想を唱え、私財のすべてを互尊文庫建設に投じました。「互尊思想」とは、宇宙で唯一の存在である自らを尊ぶ(独尊)とともに、他人も尊重(互尊)して幸福な社会を築こうとする思想です。互尊文庫が完成したとき、恭八郎は「私は図書館を寄付したのではなく互尊文庫を寄付したのだ」と言っていたそうです。それは、「自己を研鑽し、社会に奉仕できる人間を作る場が図書館であり、それが互尊文庫である」という考えから来るものでした。開館当時の建物は、昭和20年の長岡空襲で図書資料もろとも焼失してしまいましたが、戦後すぐに新たな寄付により場所を変えて今の場所に再建され、昭和42年に現在の建物となりました。最近でこそ全国で多彩な図書館が建てられ、図書館の機能が多様化していますが、50年前の図書館は図書資料を調査・閲覧する場所であって、試験勉強などの自習をする場所ではないという考え方が一般的でした。そんな時代に珍しく、互尊文庫には学習室が備えられています。図書館は生涯教育の中心であり、自己を研鑽する場であるとした「互尊翁」野本恭八郎の思想を受け継いだものなのかもしれません。 長岡市民にとって互尊文庫は、学生時代に試験勉強に勤しんだ親しみ深い場所であり、長岡の歴史資料を扱う場所という認識も深く刻まれています。かく言う私も、学生時代は互尊文庫に通って試験勉強をしていました。
 文書資料室で取り組んでいる「長岡市災害復興文庫」を命名する際、「長岡市災害復興アーカイブ」とする案もありました。しかし、互尊文庫に馴染んだ長岡市民の感覚に照らせば、紙資料を中心とした歴史資料を扱うという活動は、「アーカイブ」より「文庫」の方がしっくりくるだろうという意見があり、最終的に「長岡市災害復興文庫」に落ち着きました。 
 
 
学習室扉
108席の席数を有する学習室  受験シーズンには満席となる

 
 
ー現在は3つの資料群で構成される「長岡市災害復興文庫」ですが、最初に取り組んだのはどの資料群だったのでしょうか。また、取り組みのきっかけなどがあれば教えてください。
 
 最初に手掛けたのは「被災歴史資料」の保全です。振り返れば震災前からいくつかの前提が重なっていました。
 当時、報告書などを通じて阪神・淡路大震災での被災資料の救出事例に触れる機会があったため、災害時の史料保全の重要性や起こりうる課題について、一定の知見を備えることができていました。また、新潟県内では多くの自治体が市町村史の編さんに取り組んでいたため、県内各地の旧家に伝わる歴史資料の所在状況把握はかなり進んでいました。さらに、中越大震災の3か月前に発生した新潟・福島豪雨(7・13水害)の折に、新潟県立文書館をはじめとした関係機関の連携による歴史資料の救出活動が行われていたため、各機関の連携関係と史料保全に対する認識が深まっていました。
 中越大震災は、そのような中で起きた災害だったわけです。震災により、貴重な歴史資料は崩れた家屋や土蔵の中に埋もれて、汚破損の危機にさらされてしまいました。災害時に優先しなけ ればならないのは被災者の生命と財産、それと生活の再建です。したがって、生命、財産、生活と直結しにくい歴史資料の救出という活動に取り組むには、被災者の皆さんへの最大限の配慮と、ご理解を求める努力が必要になります。 我々の活動に対するご理解とご協力を求める文書は、阪神・淡路大震災のときの先例を参考に作成することができましたが、発信のタイミングは非常に悩みました。遅れれば震災ゴミに紛れて処分されてしまうかもしれないという時間とのせめぎあいの中、意を決して文書を発信したのは11月3日で、市内の避難所に掲示しました。そして、発災から1 か月を迎える11月22日に事前に所在把握ができていた295件の所蔵者宛てに文書を発送し、その他にも市政だよりや報道機関などを通じて広く呼びかけを行いました。 
 
 
被災資料廃棄防止を呼びかける文書
資料所蔵者あてに発行した被災資料廃棄防止のお願い
戊辰戦争と長岡空襲により文化的財産が失われたことに触れながら、被災資料の廃棄防止を呼び掛けている(※クリックして拡大)
 
 
 長岡市は、慶応4年の戊辰戦争、昭和20年の長岡空襲という二度の戦災で多くの文化的な財産や歴史資料を失っています。戊辰戦争で奮闘した長岡藩の家老・河井継之助の家伝文書も残っていませんし、江戸時代はじめからの長岡藩の藩庁文書も戊辰戦争、長岡空襲の戦禍の中で失われています。長岡空襲自体の記録も多くはありません。長岡の歴史は、かつての長岡藩が他の藩に送った文書などを収集し研究することで把握されてきました。戦災で多くの資料を消失してきた事実は長岡市民の中に共通理解としてありましたので、史料保全の呼びかけにあたっては、そのことを織り交ぜながら訴えかけました。結果、92件のご相談があり、段ボール箱約1,500箱分の歴史資料を救出することができました。その後に開始した「資料整理ボランティア」の中には、「これ以上郷土の宝を失いたくない」との動機から活動に参加したという方も実際にいらっしゃいました。
 

 
長岡市内各地に残る
長岡空襲関連史跡
 

大黒古戦場
北越戊辰戦争最大の激戦地となった大黒古戦場  長岡城落城から3か月の攻防で一度は奪還を果たすも再落城し、新政府軍に取り戻されてしまう

 
平潟神社
平潟神社  境内の防空壕で亡くなった297人を弔う慰霊の塔が建てられている

 
模擬原子爆弾投下地点跡地の碑
模擬原子爆弾投下地点跡地の碑  昭和20年7月20日 長崎原爆同型の模擬爆弾が投下訓練として落とされた

 
繊細殉難者の墓
戦災殉難者の墓  昌福寺では身元不明の還骨を引き取り埋葬した

 
長岡空爆爆撃中心の碑
長岡空襲爆撃中心点の碑  昭和20年8月1日 大量の焼夷弾が長岡の市街地を襲った 互尊文庫に隣接する明治公園がその中心点だった

 
平和像
平和像  1996年に整備された「平和の森公園」内に平和への願いのシンボルとして設置されている

 
 
一避難所の運営記録や写真といった「災害復興関連資料」は現代の資料ですが、収集・保存はどのように行ったのですか?
 
 これは偶然だったのですが、震災により地域の指定避難所が被災して中央図書館が臨時の避難所となったため、避難所運営に関わる資料は中央図書館内で集めることができました。災害直後の日常の中で生まれてくる資料ですので、個人情報もありますし、被災者の方々にとっては目をそむけたくなるような写真も多数あります。そのため、収集や整理は粛々と進めながらも、積極的な公開は控えるようにしていました。「災害復興関連資料」が注目を集めるようになったのは震災から3年目となる平成19年4月のことでした。山古志村(現・長岡市)の全村避難解除をきっかけに、「中越大震災を振り返る」という様々な企画のもと、震災時の様子がわかる資料としてマスコミに取り上げられるようになったのです。
 
ー3年ものあいだ日の目を見ることの無かった「災害復興関連資料」ですが、収集当初から、いずれ必要とされる日が来るだろうということは予測されていたのですか?
 
 はい。やはり、背景には戊辰戦争や長岡空襲の教訓がありました。中越大震災もいずれ長岡市の歴史の1ページになります。いつか行われる検証のために資料は必ず必要になる。そう確信していました。実際に、震災から5年目、10年目といった節目節目で、震災の検証や振り返りの機運が高まり、当時の資料を求められることがたびたびありました。また、その後の東日本大震災や熊本地震の時には、中越大震災の時の避難所運営のマニュアルや各種の事務文書などを被災自治体に提供し、役立てていただきました。
 
ー東日本大震災の時には、そのご経験を活かして被災地の資料保全にも一役買われたそうですね。
 
 東日本大震災の直後、原発事故で避難して来られた方々、特に南相馬市の方々の避難所が長岡市内に多数開設されました。被災の経験を共有する者として何かできないかと考えた末、長岡に開設された避難所で生み出された掲示物や事務文書を収集・保全する活動を思い付き、取り組むことにしたのです。長岡は、戦災で資料を失いながらも地域の外に残された資料で歴史を紡いできました。それと同じように、震災で辛い思いをされている南相馬の方々の避難所の記録を我々が保全することは、将来、南相馬の方々が震災を振り返り、検証するのに役立つのではないかと考えたわけです。この活動の記録は、新潟大学の矢田俊文先生のご指導のもと『震災避難所の史料 新潟県中越地震・東日本大震災』として平成25年に刊行しました。さらに、平成28年には南相馬市立中央図書館、長岡市立中央図書館、それぞれで避難所資料の展示を行い、経験や教訓を伝え、両市の交流を深めました。
 このように、「長岡市災害復興文庫」には、東日本大震災の経験も詰まっています。阪神・淡路大震災の記録が中越大震災の時に我々の初期の活動の糧となったように、我々の経験が将来のどこかの被災地の糧となるよう、今後も伝え続けていきたいと思います。そして、文書資料室自体が長岡の歴史や経験を提供しつづける「文庫(=ふみくら)」になっていければと思っています。
 
ー自らを尊ぶ「独尊」と、他者を尊ぶ「互尊」。かつて互尊翁が唱えた 「互尊思想」の精神は、度重なる戦災や自然災害の経験を通じて、この長岡の地にしっかりと育まれていることを感じました。「長岡市災害復興文庫」の活動が、現在、互尊文庫の建物の中にある文書資料室で始まったことも必然のように思います。本日は貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました。
 
 
(取材日:2017年8月20日)
取材・執筆:矢賀部 仁 金剛株式会社 管理本部復興計画室
※取材当時 

長岡市立中央図書館文書資料室
所在地:新潟県長岡市坂之上町3-1-20(互尊文庫2階)
T E L :0258-36-7832
開館時間:午前9時30分から午後5時
休館日:毎週木曜日(祝日と重なるときはその翌日)、毎月末、12月29日~1月3日、互尊文庫特別整理期間
U R L :http://www.lib.city.nagaoka.niigata.jp/?page_id=134
 

 
施設外観
PASSION38表紙
この記事は「PASSION vol.39」に収録されています
 
 
 

 

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