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「野馬追の郷」の魅力、再発見。

相馬市歴史資料収蔵館


interview

話し手:坂本 郁雄さん (相馬市教育委員会生涯学習課 課長)、大谷 和正さん (相馬市教育委員会生涯学習課文化係 係長) ※所属・役職は取材当時のものです。

 
 

関連記事:茶室から生まれた展示空間 (相馬市歴史資料収蔵館 Another PASSION)

 
 

2階常設展示室。正面の台座は「御仕法」のオブジェ。さらに奥には野馬追の映像が流れている。
 
 
ー相馬市歴史資料収蔵館の概要について教えていただけますか。 
 
 当館は今年(2014年)7月26日、相馬野馬追の日に合わせてオープンしました。敷地面積1140.40m2、鉄骨造瓦葺地上2階建て、延べ床面積1,061.76m2の施設です。1階はエントランスホールと収蔵庫など、2階は展示室となっています。市庁舎裏にある旧資料館の老朽化に伴って、現在の場所に移転・新築されました。この一帯は歴史資料収蔵館のほかに、中村第一小学校、市民会館、郷土蔵が配置されています。現在建設中の観光案内所としての千客万来館(仮称)兼中央公民館、これから着工する市庁舎も含めると全部で6つの施設がこの一帯を構成する予定です。すぐ近くには中村城跡があります。城下町にふさわしい景観となるように、ここ一帯の施設は全て白と黒を基調とした外観、瓦葺きの屋根、3階以下の高さ、という和風デザインで建設されています。  
  オープンの日は相馬野馬追の観光客も多かったのではないですか? 例年、野馬追を観に来る観光客は多いのですが、野馬追が終わるとすぐに帰ってしまわれていました。そのため、以前から観光地として魅力ある施設の整備が求められておりました。この歴史資料収蔵館と市民会館の間には「市民のひろば」という名称の広い駐車場が設けられています。今年の7月26日のオープニングイベントでは「市民のひろば」に姉妹都市も含めて20張ほどのテント張って物産展を行いました。当日の動員は歴史資料収蔵館で750人、広場全体で3,000人ほどでした。相馬野馬追の日に合わせてオープンするというのは市長の判断だったのですが、狙いは見事に当たりました。  
 
 
オープニングイベント当日の様子。( テープカットの風景)
 
 
ー所蔵品について教えていただけますか。 
 
 縄文時代の土器から近現代の芸術家の作品まで、相馬市の歴史資料を幅広く扱っています。中でも、相馬家や野馬追関連の史料、二宮尊徳の「御仕法」関連の史料、相馬市出身の彫刻家・佐藤玄々の作品などを中心に展示しています。 2階の展示室に上がると民謡が聞こえてきました。展示室の奥に見える野馬追の映像も目を引きますね。 相馬市は「相馬民謡と野馬追の郷」をキャッチフレーズにしています。2階の常設展示室にはセンサーが仕込んであり、人の動きを検知して相馬民謡が流れたり野馬追の映像が流れたりする仕掛けになってます。  
 
 
2階の階段を上りきると相馬民謡が流れ出す。右が展示室の入り口。
 
 
ー野馬追の展示の手前に設置されたオブジェはなんでしょう?
 
 二宮尊徳の「御仕法」に関する展示です。相馬中村藩は天明の飢饉(1782-1788年)と天保の飢饉(1833-1839年)という二度の飢饉で農村が疲弊し財政が窮乏しました。窮乏の復興策として取り入れられたのが、当時、農村復興政策で成功を収めていた二宮尊徳が考案した「興国安民法」による「二宮仕法」です。相馬では「御仕法」といわれています。「御仕法」は尊徳の一番弟子である相馬中村藩士の富田高慶によって広められました。「御仕法」の原理は、至誠・勤労・分度・推譲という基本理念のもと、経済の復興と安定、そして民情を豊かにするというものです。具体的には、村民の投票により善業者を決めて鍬や鋤を報奨として与えたり、荒地の開墾や植林の奨励をしたりといったものです。労働意欲の高揚や和の精神の尊重、連帯意識向上のためにいろいろな取り組みが行われ、早い村は数年で復旧しました。弘化2年(1845年)から明治4年(1871年)までの27年間にわたって行われ、領内226村のうち101村で実施され、55村で完成しました。現在でも「御仕法」の精神は市民憲章の中で「報徳の訓えに心をはげまし、うまずたゆまず豊な相馬をきずこう」として受け継がれています。  
 
 
二宮尊徳の「御仕法」の教えを表現したオブジェ。
 
 
ー相馬市は、相馬野馬追や御仕法の精神など、しっかりと現代に受け継がれている歴史文化が多いように感じますが。
 
 相馬中村藩は江戸幕府開府以来約260年間にわたり藩主家が変わることなく相馬家によって治められました。現在も相馬野馬追の総大将は相馬家の子孫の方が務められています。歴史文化が相馬家で綿々と守り伝えられたというのが一番の要因ではないでしょうか。他にも家老の熊川家文書や家臣の家の文書も多数あります。家々が守り伝えてきた歴史が地域にとっての財産になっています。 行政側で管理・把握しているものだけではなく、家々が守っているものもまだたくさんあるわけですね。 行政側で管理しているのは各家々から寄贈・寄託されたもの、それと購入したものです。もちろん、それぞれの家で管理されているものについては全容を把握できているわけではありません。現在、相馬市では市史編纂事業が進められており、有識者の方々のお力を借りて順次刊行しており、平成31年度に最終刊行するよう事業を進めております。市民の方々にご協力を仰いで家に残る史料の調査も進めております。我々としても新たな発見・発掘がどれほど進むか楽しみにしているところでもあります。今年の2月には相馬中村藩家臣であった海東家の子孫の方から「御仕法」を中心とする6300点に及ぶ史料の寄贈をいただきました。史料を保管していた倉庫が東日本大震災で被害を受けてしまったために市の方に寄贈いただいたそうです。現在この史料の調査を進めているところです。今後、「御仕法」に関する調査がさらに一歩前進すると期待されています。 近現代では、彫刻家・佐藤玄々の作品が大きく扱われていますね。 佐藤玄々(1888-1961)は旧・相馬郡中村町出身の彫刻家です。当時は高い評価を得ていたのですが、戦災で多くの作品が失われてしまったため、現在では知らない方も多いかもしれません。山崎朝雲に師事し佐藤朝山と称したこともあります。東京・日本橋の三越本店1階ホールにある巨大な「天女(まごころ)像」や、東京・竹橋の皇居お濠端に建てられている「和気清麻呂像」などを手掛けた方です。作品が有名ですのでそれらを例に出すとご存知の方も多いです。オープニングイベントの時に県外からお見えになられた方々の中にも、「あの作品が相馬出身の方のものだったんですね」と再認識して帰って行かれた方が多くいらっしゃいました。  
 
 
佐藤玄々コーナー 。手前は「神狗」。熱田神宮内の日本武尊人神社の御神体として奉納されたものの型から石膏で再現したもの。

 
 今後、この施設をどのように発展させたいですか? 観光客向けの取り組みとあわせて、一般市民の意見・要望を反映した施設づくりも重要です。現在、歴史資料収蔵館協議会というものがあり、その方々からの意見を参考にさせてもらっています。有識者や商工観光、教育関係、女性団体などの代表者の方を中心に8名で構成されています。こういった方々のご意見を反映しながら、いろいろな方々に親しんでいただけるよう展示の方法もどんどん工夫を重ねていきたいと思います。それと、学芸員資格者の充実も図っていきたいですね。海東家文書のように新たに発見・発掘された史料の読み解きと展示に対応できるような体制を確立させていきたいと考えてます。
 
ー本日は貴重なお話をありがとうございました。

取材・文:矢賀部 仁 金剛株式会社 社長室
※取材当時 

PHOTO GALLERY

中村第一小学校

郷土蔵

市民会館

相馬中村藩主画像

 

相馬市歴史資料収蔵館
所在地:福島県相馬市中村字北町51-1
開館時間:9:00 〜16:00
休館日:毎週月曜日、(月曜が祝日のとき次の平日)、年末年始
 

PASSION37表紙
この記事は「PASSION vol.36」に収録されています
 
 
 

 

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