KONGO PASSION vol.35 2014.10
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の形で飾られています。その拓本とは「壺の碑」として有名な多賀城碑の拓本です。なぜ多賀城の拓本が八重の茶室にあるのでしょうか。新島襄が設立に関わった東華学校との関わりで当時の宮城県知事から送られたものではないか、という説があります。東華学校の「東華」は多賀城で没した万葉歌人、大伴家持の歌からきています。新島襄への贈物として多賀城碑の拓本を選ぶとは、何とも気が利いているではないでしょうか。裏千家の茶道を学んでいた八重も、この東北の古碑の拓本を見ながらお茶をたてていたのでしょう。  続いてはこの東華学校を頼りに、宮城と新島夫妻の足跡を探してみましょう。明治維新の後、仙台には多くの学校が設立されました。官立のものはもとより、東北学院大学の前身である仙台神学校、メジャーリーグで大活躍のダルビッシュ有投手の出身校である東北高校の前身の東北中学など、多くの学校が開設されています。東華学校もその一つで、設立当初は校名を宮城英学校といいました。  この宮城英学校は仙台藩出身で第二代日本銀行総裁となる富田鉄之助などが中心となって活動していた東華義会という教育振興団体を母体として設立されました。この宮城英学校の初代校長に就任したのが新島襄です。もちろん新島襄の活動の中心は京都ですから、彼が毎日校長室の椅子に座っていたわけではありません。今風にいえば非常勤校長といったところでしょう。  ここで一つの疑問が湧きます。なぜ新島襄が校長に就任したのか、です。この答えは新島襄の日記『出遊記』の中にあります。新島襄はアメリカ周遊中にリウマチを療養しようとサナトリウムに滞在していたことがありました。その時の日記には東北に英学校を設立したいとの思いが記されています。当初は仙台にするか、福島にするのか迷っていたようですが、富田鉄之助などとの手紙のやり取りを繰り返し、最終的には仙台での開学に踏み切ったようです。つまり新島襄は宮城英学校開学の主唱者としての校長の任に就いたのです。  明治20年6月、宮城英学校は校名を東華学校と改称し開校式が行われました。この時、新島襄は夫人の八重を従えて仙台にやってきています。一足先に京都を発っていた八重とは上野駅で待ち合わせて仙台に向かいました。途中、岩沼・名取の付近で大雨にあたり道路の冠水などの災難に遭いましたが、6月15日に夕方に仙台に到着します。17日には榴ヶ岡にある梅林旅館に宿を移し、その翌日に開校式に参列しています。  宮城県公文書館には、この時の学校設立に関する申請書が残されています。自筆ではありませんが、校長の名として「新島襄」と明記されています。ただしこの部分は申請書には不要だったようで、上に紙を貼って消しています。今とは異なり、紙と筆の世界です。一度記されたものは簡単に消すことはできません。ですが、おかげで「新島襄」の名が残りました。  宮城県公文書館は平成25年3月に新島夫妻の足跡残る榴ヶ岡から、仙台市郊外の泉区紫山に移転しました。新島襄が「有名ナル榴カ岡」と讃えた地からは遠く離れてしまいましたが、木々に囲まれた自然豊かな場所です。また、理想的な環境を維持することができる空調設備やガス消火設備を備え、貴重な歴史資料・行政資料を保管することができるようになりました。宮城英学校設立に燃えた新島襄の記録はこの新しい公文書館で大事に保管されていきます。 宮城県公文書館 所在地 TEL FAX URL E-Mail/宮城県仙台市泉区紫山1-1-1  (宮城県図書館内2F) /022-341-3231 /022-341-3233 /http://www.pref.miyagi.jp/soshiki/koubun/ /koubun@pref.miyagi.jp 38東華学校(『仙台一中・一高の百二十年』より) 収蔵庫 収蔵庫 職員の皆さん 閲覧室 宮城県公文書館 非公式キャラクター 「うつぼDX」 IPM 推進中

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